くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

ムソルグスキーの評価を考えてみる

 

ロシア5人組の1人

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ロシア5人組と呼ばれる作曲者たち

 目次

 

 バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ

この5人をロシア5人組と呼ぶのだそうな。それぞれ世代が似通った作曲家のサークルと言っていい。

彼らはロシアの昔からの音楽を務めて紹介することに情熱を感じており、その反面ヨーロッパ的なその当時クラッシック音楽界を代表する様々な作曲家や作品を敵視する事を旨としていた。

したがって、彼ら5人組は批判の槍玉に挙げていたのはチャイコフスキーであり、またヨーロッパで活躍していたリストやブラームス、シューマンといった音楽史に残る作曲家たちである。

しかしながら、世の中の常として誰かに敵対する事は簡単に人を集めることができても、そのままの状態で敵対するエネルギーを維持する事は困難なこと。

5人組もやがてはその活動がぼやけてきて、5人組の中のメンバーとチャイコフスキーが交流しあったり、またヨーロッパの著名な作曲家たちが5人組の人と意見交換することもあったと聞く。

音楽として良いものはそのほとんどの場合後世に残るが、 5人組もチャイコフスキーの音楽もロシア音楽として現代にも伝わっている。

公務員 音楽家専門ではなかった

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一般に知られた肖像画

ムソルグスキーは地主の出と聞いている。家は裕福ではあったが、時代は帝政ロシアの末期。必ずしも家族が安泰だったわけでは無いようだ。

彼は軍隊に志願したり、他にも公務員として働いてはいたのだが、身分は安定しなかったようだ。

結論から言って音楽の専門職ではなかったのだ。

しかし、幼い頃から父親からピアノの手ほどきを受けたり、他にも音楽に関わる勉強をしていて、本人の並々ならぬ才能もあって、後世に残るような作品を多く残している。

彼の性格は、真面目な印象を受ける。また情にもろい部分を感じる。

当時のロシアの民族主義に傾注し、反ブルジョワ、反ヨーロッパなどの思想に傾注し、作曲する曲もロシアの民族音楽などを務めて採用するようにしていた。

ムソルグスキーの作曲手法は、決してアマチュアや素人のものではない。

こと、音楽に関してはその才能の輝きが前面に出ていて彼の音楽をこよなく愛するプロもたくさんいたのである。有名なところではフランスのドビッシー。

ドビッシーは印象派の巨匠とされるが、彼の音楽を形作ったのは間違いなくムソルグスキーと言える。

今聞いてみてもムソルグスキーの著名な旋律や和声学は印象派のものと言っても全く違和感なく納得できる。
 

不遇な現役時代

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大酒のみだったことがよく知られている。

ムソルグスキーは音楽の専門職ではなかったが故の、不安定な身分の上で苦しんでいた経緯がある。

生涯独身を通した彼は、様々な人との交流を繰り返しながらも、彼が存命中には音楽家としては成功を手にすることができなかった。

日々ストレスが溜まる中での唯一のはけ口は酒だったようだ。

彼が大酒のみで、時々ハメを外すこともあったらしい。

ここで紹介する肖像画は、赤ら顔の明らかに酔っぱらった表情である。

特に鼻の頭が赤いことが、彼の健康状態を如実に表している。

彼は大酒のみであるがゆえに心臓疾患を患い、41歳の若さでこの世を去るのである。

芸術家が生前報われない事は多々あることなのだが、このムソルグスキーといい、画家のゴッホと言い、生前は全く報われることがなかった。

それでも作り続けた彼らの芸術は、損得抜きに素晴らしいものと言える。

超有名な曲


M.ムソルグスキー / 組曲「展覧会の絵」

 オリジナルはピアノバージョン


ムソルグスキー/組曲「展覧会の絵」第10曲「キエフの大きな門」

 ムソルグスキーの有名な曲はこちらの「展覧会の絵」である。

彼には建築家の友達がいたようで、その友達が若くして亡くなっているのである。

友達の数枚の絵を見たときに、そのエネルギーからいくつかのインスピレーションを得て作ったのがこちらの曲。

オリジナルはピアノ曲だが、ラベルによってオーケストラ用に編曲され、こちらはオリジナル以上に有名かもしれない。

この「展覧会の絵」は組曲である。私たちがよく知る部分は、「キエフの大門」。

組曲の最後に出てくるモチーフである。

このきらびやかな壮大なインスピレーションは、ムソルグスキーが作曲家として並々ならぬ実力者であったことを如実に物語っている。

この曲が後世の作曲家たちに大きな影響を与えたと信じるに足る事実だろう。

まとめ

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チャイコフスキーと5人組

実はロシアの著名な作曲家と言えば真っ先に思い浮かぶのはチャイコフスキー。

しかしながらチャイコフスキーはロシアの中にいても、その音楽的な基盤はヨーロッパ的な発想を元にしており、 チャイコフスキー自身も願っていたのは、ブラームスを始めとするヨーロッパで中心的な活躍をしている人たちに認められることだった。

 5人組はこのようなチャイコフスキーの姿勢を厳しく批判した。

ロシアはロシアなりの道を進むべきだとそう主張し続けたわけ。

特徴としてはチャイコフスキーを始めとする伝統的な音楽集団は皆きちんとした音楽の教育を受けていること、それとは逆に 5人組と呼ばれる人たちは専門的な音楽の教育を受けていない特徴があった。

軽はずみな批判はできないが、 5人組には伝統的な音楽に対する嫉妬心のようなものがあったのではないか。

 5人組の中のリムスキーコルサコフ等はチャイコフスキーと親交を結んで、良い関係にあったと聞いている。

 5人組はやがてはその活動が曖昧になって消えていくのだが、それぞれの作曲家たちは皆自分自身の音楽を確立さえできれば、後は外への批判などはあまりしていなかったようにも感じる。

実はこの時期のロシアは帝政の末期で政治的には民衆の不満が鬱積していて、必ずしも一枚岩ではなかったのである。

そして彼らが活躍した数十年後には、つまり20世紀の初頭であるがロシア革命が起こって、歴史は一気に転換点を迎えた。

ムソルグスキーの音楽は、その時代の過渡期にあって、音楽の才能を花開かせた。

もしムソルグスキーが裕福で生活も安定していたのならば、彼の今日残っている音楽は産み出せただろうか。

芸術の世界では、周りの環境と作品の性質は密接な関係を持つと思われる。

ムソルグスキーの一生を考えてみると、彼の芸術はある意味、彼の命と引き換えだったのではと思ってしまうのである。