バルトーク ハンガリー出身の著名な作曲家
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目次
彼は19世紀の末に生まれている。ハンガリー出身。音楽にとても造詣の深い両親から生まれて、彼自身、幼い頃から音楽の才能を開花させていた。
最初はピアノを学んだようだ。
そしてほどなく作曲もこなすように。
彼の年表を調べてみると、民族音楽の研究家とあった。
彼は自分の生まれたハンガリーを始め様々な民族音楽に造詣が深く、そのような古い言い伝えとも言える音楽を求めてあちこち旅したようだ。
またこの時期の音楽家としては普通に家庭も持って、幸せに暮らしていたとも聞く。
彼は28歳の時に結婚をしているのだが、奥さんとなられた方は12歳年下である。
まだ16歳の少女を妻にめとったのである。ただし、14年ほどで離婚をしているが。
その後、42歳の時に自分のピアノの弟子であった女性と再婚している。
子供にも恵まれ、その子供はバルトークについての著書を表している。
バルトークの一生を調べてみると、どうしても第二次世界大戦中のナチスの迫害を避けていた節がある。
彼はすでに家族を持っていたのであまり好き勝手な事はできないのだが、アメリカに渡ってそこで一生を終えることに。
彼の死因を調べてみると、白血病とあった。
還暦の60歳の時に発症をして62歳で没している。
歳をとってからの白血病は骨髄性のものが多いのだが、日本では市川団十郎が同じ病気で亡くなったと聞く。
彼はナチスドイツの支配を嫌っていて自分の亡骸は故郷のハンガリーには葬ってはいけない遺言を残していたのだが、 20世紀の後半になってから母国ハンガリーに改葬されることになったようだ。
つまり、ハンガリー出身のとても著名であり、国の功労者として評価されたわけである。
古くから日本でも愛された作曲家
この作曲家が日本でも著名な作曲家である事実を、はるか昔であるが高村光太郎の詩の中で発見したのである。
私が、22 3歳の頃、読みふけっていた様々な本の中から発見したのである。
バルトークの悲しみや怒りが 第三の天で鳴つている。 冬の夜風は現世を吹くが、 あの四重奏がもつと底から悲しくて痛くて。
詩「弦楽四重奏」より 昭和29年(1954)
光太郎72歳
智恵子抄で有名な高村光太郎はもともとは彫刻家。
父高村光雲やロダンの影響を受けたとされている。彼は彫刻だけではなく詩を書いたりすることもなりわいとしていた。
私などは、彫刻家としよりも智恵子抄の作家としての方がより認識が深い。
実は幸太郎の晩年の詩の中にこの弦楽四重奏なる作品がある。
ここにバルトークが紹介されているのである。
それまでバルトークと言えば現代音楽の作曲家としての認識だったのだが、聞いてみると必ずしも前衛的な曲作りをしていたわけではない。
おそらく高村光太郎も聞いたであろう弦楽四重奏曲を1つ紹介しておく。
Bartók: String Quartet No. 1, HungarianSQ (1961) バルトーク 弦楽四重奏曲第1番 ハンガリー弦楽四重奏団
この曲にバルトークらしさが出ているかどうかは私にはわからない。
しかし、おしなべてバルトークの曲はどれも皆不思議な魅力に溢れていると言える。
メロディーも和声もどれもが目新しいのだが、彼の曲から感じられるのは驚くほどの古めかしい奥行き。
曲想は明らかに現代音楽なのだが、彼自身はベートーベンやブラームスを真剣に勉強してきた経緯があるのだ。
彼をして新古典派の流れをくむとさえ言わしめる論評があるのだ。
この、伝統的な音楽の精神を最も新しい手法で表現をする。それがバルトークのやり方と言っていいだろう。
作曲家としてピアニストとして
バルトークは18歳でブダペスト音楽院に入学をしピアノと作曲を学んでいる 。
彼にピアノを教えた先生は、あのリストの直弟子とされている。
つまりバルトークはリストの直系の流れをくむピアニストと言えるだろう。
バルトークは身長165センチほどで決して大きくはなかったのだが、手はかなり大きかったようで、ピアニスト向きだったと言われている。
バルトーク自身も何人かのピアノの生徒を教育していた。
その中の1人に女流ピアニストリリークラウスがいる。
半世紀以上も前の話であるが、私が中学1年の時、音楽鑑賞で初めて聞いたピアノ曲がトルコ行進曲。その時の演奏家が今でも覚えているがリリークラウスだった。
バルトーク自身はピアノは盛んに教えていたようだが作曲は教えていなかったようだ。
本人の話では作曲を教えるほどのマインドは持ち合わせていないとの事。
また作曲は学んで身に付くものではないと思い込んでいたらしい。
彼はピアニストとしても極めて著名だったので様々な演奏家や指揮者とも共演をしているようだ。
指揮者ではあのフルトヴェングラーなども共演したことが。
他はその当時著名だったバイオリニスト、チェリストなど。
まとめ
バルトークの音楽を表現するならば、伝統的な音楽の精神を新しい手法を用いて表現するといったところか。
いろいろ調べてみると、彼自身は気難しい性格で、なかなか人と打ち解ける事は得意ではなかったようだ。
典型的な芸術家気質と言っていいだろう。
しかし彼が音楽、とりわけクラシック音楽の世界で残した功績はとても大きいものがある。
バルトークが活躍できた時代は、旧ソ連ではストラヴィンスキーを始め様々な作曲家が新しい音楽をひっさげて登場してきたのである。
それらの作曲家の中にあって、一歩もひくことなく、自分自身の新しい音楽を築き上げていった。
もし、あと5年長生きできたならば、アメリカでもさらに活躍できたはず。
バルトークにピアノの手ほどきを受けた演奏家はいっぱいいるが、彼の作曲家としての業績を引き継げる作曲家は見当たらない。
彼は1代で活躍した音楽家なのである。
最近は、YouTubeなどで思い通りに音楽を聴くことができるが、現代人の悲しさで、じっくりと聞くだけの時間が持てないのが心苦しい限りである。
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