たまたまテレビで見かけた番組 アナザーストーリー。
松嶋菜々子さんが番組の進行をやっているが、そこで再放送のものを見させてもらった。
昔からよく知っていてプロレスラーとして日本で有名だったのだが、確か文芸春秋か何かに自分自身の髄質を載せていたことがあって、とても知的な人なんだと感心した記憶が。
日本で大活躍人気のレスラー
目次
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かつて悪役として大暴れしていた頃のピッチャーは悪役にある意味命がけだったと言える。
彼が目標にしていたのは、とにかく観客に楽しんでもらうこと。
プロレスが見世物として成立していることを信じて疑わなかった。
あの当時(70年代から80年代にかけて)、プロレスはスポーツのようであり、実際は お客さんにパフォーマンスを見せるためのショーだったと言える。
プロレスには様々なレスラーがいて、見世物として様々な売り出し方をされていた。
有名な話がある。
レスリングをベースとして作り上げられたプロレスリングは出発当時はスポーツとしての側面を持ち合わせたが、観客を前にして試合をするときにはプロモーターがいて人気のカードや人気のレスラーがある程度決められていたのである。
特に試合をわかりやすく見るために、善玉レスラーと呼ばれる「ベビーフェイス」、悪役レスラーとされる「ヒール」に分かれていった。
アブドラザブッチャーは「ヒール」の頂点に君臨した。
アメリカではヒールの役割ははっきりしている。
- 周りから憎まれること
- 試合では卑怯なことを数限りなく行うこと
- 試合の最後は惨めに負けること
これがヒールの役割である。人気商売なので当然のことながらレスラーたちにもランクができる。
ベビーフェイスもヒールもお客さん次第。
ベイビーフェイスと呼ばれるレスラーの筆頭は誰かと言うとあの大巨人アンドレザジャイアントである。彼は超のつくベビーフェイス。
日本で人気のあったプロレスのレジェンド「ルー・テーズ」は鉄人と呼ばれたが、あの必殺のバックドロップをひっさげてベビーフェイス中のベビーフェイスと言えるだろう。
ルー・テーズがプロモーターたちに特に人気があったのは、ショーとしての持ち味をいつも考慮してくれたこと。それは相手のレスラーにある程度力を出させて試合をそれなりに面白おかしく作り上げるのである。
ある程度相手に攻撃をさせて、追い詰められておきながら、最後は自分が仕留めて勝つ。
そのルーティーンが、プロモーターに大うけすると同時に観客にも支持された。
ルー・テーズ以上の実力がありながらプロモーターに干されたのは神様と呼ばれた「カールゴッチ」。
彼はその強さを発揮するのに相手を全く顧みる事なく、秒殺で仕留めた。
そんなことをしてしまえばショーとしては成立しない。
すぐさまプロモーターたちから総スカンを食ったのである。
ブッチャーはこのような時代のヒール。
凶器攻撃を始め、場外乱闘、ありとあらゆる悪事を働いたが、極めつけは毎回の充血試合だろう。
彼と戦う時はどんなレスラーも血を流すことを覚悟しなければならない。
不思議なもので興奮したレスラーたちは血を流してもそれほど痛みは感じないのだそうだ。
しかし、毎回の流血では傷が治る暇もなく次の試合をしなければいけない。
ブッチャーの額の傷はその歴史が深く刻まれていた。
試合の中では様々な工夫が暗黙のうちになされていて、当然、筋書きもあったわけだし、流血などもあらかじめ血が出たたことを想定した仕掛けがしてあったとも聞く。
日本に行きたくてたまらなかったとのこと
ピッチャーは、最初カナダでデビューをしている。
貧しい家計を助けるために街頭で新聞を売ったりしていたが、ある時スカウトの目に留まってプロレスラーとしてデビューすることに。
場末のリングではそれほどの収入が得られるわけもなく、カナダからアメリカに渡って試合をしようということに 。
その時、アメリカのリングで活躍していたのは日系人レスラーのヒールたち。
彼らがそれなりに活躍をして高収入を得ていたと知るや、何とかして日本に行こうと当時の日系悪役レスラー“グレート小鹿”に何度も頼み込んでいたようだ。
日本に最初に来たときには、最低のギャランティーで試合をしたと聞く。
自分がヒールであることを自覚していたブッチャーは、最初の来日で悪事の限りを尽くす。
それは簡単な理由で、とにかく目立とうとしたらしい。
俺はこれだけやれるんだと死に物狂いでアピール。
日本に来日した直後の頃は、体は丸いが、驚くほど身軽でトップロープをそのまま飛び越えて来れるほどのジャンプ力があり、スピードもびっくりするほどのフットワークを見せつけていた。
そのブッチャーが悪事の限り、流血試合は毎回だし、凶器を使いたい放題。
しかし、日本のファンはそういったブッチャーの試合ぶりを楽しみに待っていた。
彼は見世物として、演出として全てやっていたので、悪役キャラながら人気レスラーとしての地位を不動のものにしていったのである。
ブッチャーが味わってきた人種差別
黒人であるブッチャーは試合以外では人種差別の被害に遭っていたようだ。
白人プロレスラーの中には黒人を始めとする有色人種のレスラーを極度に嫌う輩がいたようだ。
控え室などでそのようなレスラーたちと同席しなければならなかった時、ブッチャーはまるで借りてきた猫のように隅っこの方でじっとしていたらしい。
リングの上のブッチャーと控え室のブッチャーは全く別人との証言があった。
それはどうやら日本に来ていた時も同じような感じで、そのことを察したプロモーター“ジャイアント馬場”は、側近の世話係に命じてブッチャー専用の控え室を作らせたと聞く。
ブッチャーは自分以外のレスラーはすべて呼び捨てだが、ジャイアント馬場だけはMRをつけて呼んだらしい。
調べていて、あちこちで遭遇するのはジャイアント馬場のプロモーターとしての優秀さ。
人レスラーは外人であろうが日本人であろうが、手厚くもてなし、ギャランティーをケチったり不払いなど絶対になかったと聞く。
どのような悪役レスラーもジャイアント馬場を悪く言うものはいない。
むしろジャイアント馬場を尊敬する声をたくさん聞くのである。
日本で一躍人気者となったドリーファンクジュニアのザファンクスがあるが、彼らはジャイアント馬場から厚遇され、そしてブッチャーを心から尊敬し感謝していた。
自分たちが一躍人気レスラーになったのはブッチャーがいたからだと。
彼らは南部の出だったが、人種差別をするような人ではなかったようだ。
70年代当時、日本で1、2の人気レスラーだったと思う。
この兄ドリーファンクジュニアはカナダのジンキニスキーに勝ってNWAチャンピオンになった男。
そして、ジンキニスキーは鉄人ルー・テーズを破ってチャンピオンになっている。
この歴史を知っているが故に、この頃のレスラーたちの値打ちが私にはよくわかる。
チャンピオンシップは言ってみれば付録のようなもの。
レスラーの値打ちは試合をしてみてどれだけ観客を満足させられるか。
そこにのみ存在感があることをブッチャーは熟知していたと言える。
今年の2月に行われた引退セレモニー



今年の2月に行われた引退セレモニー。
1プロレスラーの引退でこれだけ人が集まるのも珍しい。
ドリーファンクジュニア
スタンハンセン
ミルマスカラス
あの当時のスーパースターたちが勢ぞろい。
ブッチャーは長年の無理がたたって歩行が困難な様子で特製の車椅子で登場となっていた。
この席にはジャイアント馬場は既に死んでいていなかったが、仲間のレスラーたちが大勢参加をし、そしてたくさんの観客たちに見送られた事は彼にとっても本望だったに違いない。
ブッチャーのまごころ
この映像のセリフの次に来る言葉がある。
「君たちのお父さんやお母さんを老人ホームなんかに入れちゃだめだぞ」
彼が生涯かけてモットーとしてきたのは自分よりも目上の者、とりわけ両親に対して感謝の気持ちを持つこと。
これがある意味遺言のようなもの。
番組の中で紹介されてきたが、ブッチャーは長きにわたってボランティア活動をしてきた。
それは社会的弱者とされるホームレスを始めとする人々に手を差し伸べること。
リング上で大暴れするブッチャーも本人だが、人知れずボランティア活動を継続するのもまたブッチャーだった。
彼は間違いなく私の世代の愛すべきヒーローと言える。
1941年生まれ。現在78歳。
長生きしてほしい。