アポロ11号の月着陸には様々な技術の積み重ねがあったが、その中で特徴的なものをいくつかピックアップ。
特にアポロ計画は最初に致命的な事故に遭遇している。
その事故からわずか1年後には月周回軌道上に宇宙船を投入しているのである。
アメリカのメンツをかけた挑戦だったが、そのことを特集した番組が何度か放送されたので、調べてみることに。
ちなみに月から地球を見た最初の写真 「地球の出」
目次
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アポロ1号の事故



月旅行を目的としたアポロ計画はロケット開発の最初に悲惨な事故に見舞われている。
アポロ1号で披露された計画の要とも言える司令船。
実はこの司令船は試作品状態で後から様々な不備を指摘されることに。
- 船内の空気が純酸素だった
- 船内の配線がむき出し状態だった
- 出入りのハッチが内開きだった
実は宇宙船を考えたときに、この3つの要素は致命的な欠陥だったと後から気がつく。
配線がむき出しの状態だと何かの加減で火花が発生したときに、船内の純酸素の空気だとそのまま一気に燃え広がってしまうのである。
実は、この2つの事柄がアポロ1号の訓練中に起こったのだ。
3名の飛行士は船内で炎に焼かれて、死亡したのだが、外へ脱出しようとしたときに、出入りの扉が内開きだったが故に、炎で圧力を増した船内からドアを開く事は叶わなかった。
この悲惨な事故を受けてアポロ1号から6号まではすべて無人で計画を実行。
有人飛行をすることにはならなかったのだ。
実はこのときの訓練室のモニターで通信係を行っていたのがアポロ8号の船長となるボーマン
彼はこの事故を受けて、すぐに調査委員会のメンバーに加わっている。
同じ宇宙飛行士の仲間が犠牲になったわけだ。
しかしこの事故からおよそ1年の後、彼が月へ向かうミッションに参加することに 。
アポロ計画は故ケネディー大統領の一大号令に基づいて始まったのだが、ソ連との宇宙開発合戦の様相を呈して、Nasaの職員もパイロットたちも皆、焦りと不安の中で計画に参加していた。
新しい技術を複数投入


このエンジンの設計者はナチスドイツにてV2ロケットの開発者フォンブラウンが行っていた。
彼の設計したF1エンジン。
この史上最大のロケットエンジン5基をサターン5型ロケットの1段目に配置した。
このエンジンの開発に随分と苦労をしたようだ。
エンジン1基当たりがとにかく巨大である故にどうしても燃焼にばらつきが生じてしまう。
何をどうやっても、解消されない不安定さに苦肉の策で、噴射装置に仕切り板を設けて試してみたところこれが大成功でエンジンがほぼ完成したと言える。
このエンジンの噴射実験の時に、わざとエンジン内部で小爆発を発生させて燃焼を不安定にさせたところが、エンジンは苦もなく燃焼を通常に再開できたようだ。
このエンジンが推進ロケットの要となっていて、燃焼は点火後わずか 2分半で終わるにもかかわらず、計画遂行のための最も大切なポイントとされていた。
ちなみにサターン5型の2段目3段目には別あつらえのエンジンが採用された。
J−2と呼ばれるこのエンジンは液体酸素と液体水素を燃料とするエンジンでは最大。
特に2段目には5基。 3段目には1基使用され、特に3段目に使用されたものは実は宇宙空間で再点火に耐えられるように設計されていた。
この手の巨大なエンジンは通常1度点火したならば、燃え尽きるまで使うのが普通。
そこで再び点火する事は全く新しい試みだったのである。
それは月へ向かうためにはぜひとも必要なプロセスだった。
アポロ宇宙船は一旦地球の周回軌道に乗った後、月へ向かうためにロケットのエンジンを再点火する必要があるのだ。
その時には相応の出力が必要となる。
新しく推進部分をこしらえることにもならないので、サターン5型の3段目を再点火することに。
この時、宇宙飛行士たちはかつてないくらいの強烈な振動を操縦席内で感じていたと聞いている。
また月へ向かう機械船、司令船は月へ向かうときには月へ向かってお尻を向けた方向で飛んでいたようだ。
乗組員たちは月に到着する直前まで月の姿を見ていなかった。
その時に役に立ったのがあなたに導入されたジャイロシステムと、宇宙空間でも使える六分儀。
これを使って、自分自身の現在地を割り出していたのだ。
また機械船のメインエンジンは月周回軌道に入るための点火と月から離脱するための再点火も必要とされた。
宇宙空間で2度3度点火可能なエンジンも、アポロ8号で初めて運用となったのである。
新しい試みをいくつも取り入れて、これらの任務を遂行するのに最も役立ったのが今も用いられる数字を打ち込むタイプの操縦補助装置。
人間がアナログで操縦するには月旅行はあまりにも複雑で、またロケットの点火は皆が考える以上にデリケートな精度が要求されたのだ。
コンピュータを用いて正確に行う必要があった。
そのためのプログラム入力が宇宙飛行士に要求された。
一昔前のテストパイロット時代の腕にものを言わせるタイプの宇宙飛行士はそろそろ通用しなくなっていたと言える。
アポロ8号で乗組員たちが抱いていた成功の可能性はわずか3割程度と言われている。
失敗する可能性が限りなくたくさんあったようだ。
アポロ8号で人間を乗せて初めて運用されたサターン5型ロケット。
また宇宙空間でのロケットの再点火。
機械船の信頼性。
これらは皆、未知数だったわけで、心配の種は尽きなかったのだ。
それというのも、宇宙空間にいったん出てしまえば、太陽のあたる方は摂氏数百度に熱せられるし、逆に当たらない方はマイナス200度近くまでの低温にさらされる。
このような過酷な条件で、宇宙船の様々なシステムがうまく稼働するのかどうか。
実はそのような耐久実験はほとんど行われずに計画が遂行されたようだ。
ただし、月へ向かう途中は宇宙船全体をゆっくりとローリングさせながら飛ばしていたようだ。
アームストロング船長はこのことを確か“バーベキュー方式”と呼んでいた。
奇跡的にどれもが期待に違わぬ活躍をしてくれて、月まで飛行士たちを運んでくれたのである。
月への周回軌道へ


フランクボーマンは船長としてアポロ1号以来この計画に関わってきた重要人物。
メンバーの中に後にアポロ13号の船長を務めるジムラベルがいた。
実はこのジムラベルだがキーボードを押す際に間違いを犯している。
誤って押したボタンはリセットボタン。
すべてのデータが消去され、宇宙船は今、発射台にいるとの情報を告げ始めた。
要するに、地球と月とのあいだでどこにいるかわからない迷子に。
こういった場合の対応方法も管制室の方できちんと対策がねられ、あらかじめ算出してあった位置情報を司令船のコンピューターに送信することでなんとか事なきを得たと言われている。
これだけのシビアな計画だとヒューマンエラーが命取りになるわけだ。
ジムラベルはこの後のアポロ13号で信じられないトラブルに見舞われるのだが、勇気ある行動で残りのメンバー2人を牽引し、奇跡の生還を遂げている。
アポロ13号では絶体絶命のピンチに陥ったのだが。
まとめ



考えてみれば月旅行の計画はアポロ8号からアポロ17号までが有人飛行である。
そしてアポロ8号から11号まではわずかに4回。
たった4回のチャレンジで未知の世界へのアプローチ。
これだけの計画を成し遂げるには単純に情熱だけではおよそ無理。
超人的な活躍をする人が何人もいて、しかも奇跡が複数回起きなければならなかっただろう。
しかしアポロの1連の計画では、これらのことが信じられないぐらいの精度で成し遂げられた。
全てが順風満帆でうまくいっていたわけではない。
絶体絶命のピンチも何度かあったし、犠牲者も出ている。
そこまでしても成し遂げなければならないプロジェクトだったのだ。
この時開発された様々なシステムが、今の科学的な繁栄の礎になっている事は言うまでもない。
様々な映画でも、この1連の物語が語られてきた。
これからもいろいろな形で紹介できるに違いない。
そしてまたこの時アメリカと競いやっていたソ連、今のロシア。
彼らもまた地道に宇宙開発の努力を継続している。


国際宇宙ステーションに人を送り届けたりするのはソユーズが中心。
このロケットも運用歴は長い。
様々な意見を承知で言うと、世界中で1番信頼性のあるロケットかもしれない。
今は民間企業も宇宙開発に参画する時代だが、長期間採用され続けているロケットの代表例がソユーズだろう。
宇宙開発ではほぼ基礎研究に相当するのかも。
スペースシャトルが退役した今、アメリカでは民間企業が衛星その他の打ち上げを行っていて、そのうち有人飛行も始まるに違いない。
また宇宙飛行で言うならば、中国もじわじわと追いついてきている。
皆それぞれのお国のメンツがあるのだろうが、できればなるべく争い会うことなく穏やかに宇宙を目指して欲しいものだ。