実は今から50年以上も前の話。
20歳前の私は、音楽を聴いたり、本を読むことに目覚め、様々なものに触れることに喜びを感じていた。
その時に知った詩人の1人が高村光太郎。
私は最初、彼のことを詩人だと思っていた。
しかし、それは誤りで実は彫刻家であって海外留学経験もある日本を代表する人だとほどなく知るのである。
彼の父は高村光雲。
彼は芸術家としての将来を嘱望されていたのだ。
フランスに留学して彫刻家ロダンの影響を強く受ける。
当時フランスの彫刻家の代表と言えばロダンでありその弟子のブールデルでありマイヨールなどが挙げられる。
しかし、高村光太郎の業績は私にとっては彫刻家としてよりは、文筆家としての方がはるかになじみがある。
その中でも代表的なのが智恵子抄だろう。
映画や、その他小説など様々な他のジャンルで紹介され、知らないもののないくらい有名な作品。
その智恵子抄の中から光太郎がどのような気持ちで智恵子との関係を維持したのか伺い知ることができる。
目次
智恵子は幸太郎の追っかけだった
旧姓長沼智恵子は福島県の造り酒屋の娘で美術の勉強をしたくてわざわざ上京して美大に通うほどの先進的な考えの女性だった。
最近、知ったことだが、実は智恵子にはわずかに色盲があるらしく、色彩が普通の人のようには見えない欠点を持っていたらしいのだ。
そういった原因もあって、どうしても普通の人が描くような絵を描くことができないジレンマがあったようだ。
そんなある時、雑誌で高村光太郎の寄稿した文章を読むのである。
そこには
「緑色の太陽があったっていいじゃないか。そのように見えるのならそのように描けばいいだけのことなんだから」と。
この文章にいたく感激した智恵子は、友人のつてをたどって光太郎の元へ訪ねていくのである。
半ば、押し掛けのような間柄ではあったがある時、智恵子に降ってわいた見合い話のことに対して、光太郎から激しく求婚される。
これ以降、2人は夫婦として暮らすことに。
大正から昭和にかけてのころだと女性は家の中にいても家事全般を請け負って、男性が外で仕事をするのが当たり前の時代。
この2人はお互い芸術家同士、別々のアトリエをこしらえてそれぞれ分かれて自分たちの仕事をしていたようだ。
つまり、智恵子は絵を描くこと。
光太郎は彫刻を作ること。
またそれ以外、家事全般も2人で分担したようである。
海外留学を経験していた光太郎はその信条として、フェミニストが身に付いていたのかもしれない。
自ら料理を作り妻に振る舞う。そういったことをごく当たり前にできた人だった。
このような暮らしぶりの中でも、2人の生活はギリギリでいつもお金に困っていたと聞く。
智恵子はお金になるような絵を描くことがままならず、また光太郎自身も自分自身が気に入った仕事しか引き受けなかったようだ。
主な収入源は光太郎が文筆活動で得られるわずかばかりの報酬。
しかしながら調べたところによると、智恵子には光太郎の父光雲からいくらかずつ生活費を応援してもらっていたようだ。
そのようなギリギリの生活を10年ほど続けたあたりから智恵子に異変が起こってくる。
もともと、人付き合いが苦手でしかも自分のカラに閉じこもりやすく、生真面目な性格の智恵子はやがて精神に変調をきたすように。
今で言うところの統合失調症である。
すでに、20歳の頃からそのような傾向があったとの記述もあった。
統合失調症は精神科を受診して必ず治療をしなければ、自分自身の精神力とか周りの応援で乗り切れるとか、そのようなレベルの甘い病気ではない。
現代で 統合失調症を発症して医者の診断書が下りれば、それをもとに障害者として認定されるほど。
要するに日常生活を送るのに重篤な影響が出る病気。
実際に智恵子が精神科に入院して治療を始めるのは47歳になってからなので、結婚してからはおよそ20年ほどは経っていただろう。
ここら辺の夫婦のやりとりは高村光太郎の詩集智恵子抄の中にエピソードとしていくつも描かれている。
後から紹介する写真の中に “あどけない話”の詩が載せてある。
ここで光太郎への智恵子のメッセージが描かれているのだ。
自分にとっては慣れない土地 東京でストレスにさらされながら暮らす智恵子。
彼女が発するギリギリの感性がここには述べられているが、肝心の光太郎はあどけない話と簡単にあしらっている。
もしこのサインを見逃さずにきちんと治療が始められたならば後年の重篤なことにはならなかったはず。
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統合失調症について
統合失調症は脳内の伝達物質に異常が起こる病気である。
脳の中では普段、雑念と呼ばれる様々な思考が発生しては消えるが、そのことを通常の人は自分自身の感性や知性でうまくあしらっていくのだが、この病気を発症すると、その作業がうまくいかず、幻聴であったり、幻視を見たり、病気の人は、まず自分の身に起こる異常で疲弊していくのだ。
統合失調症の人は、常に耳鳴りのような音を聞いているとされる。
この耳障りな音は、スピーカーの発するハウリングのような音でもあり、神経を逆なでする非常にストレスのかかる音のようだ。
今は、治療用の良い薬があって、これらの症状は著しく軽減することができるようだが、その前にはまず診断が不可欠。
心の病に関してだと、どうしても医者には行きにくい気持ちがあったりして、発見が遅れたり治療が遅れたりする事は今も昔も変わらないだろう。
重篤な症状の場合は入院が必要となる。
頭の中に鳴り響く雑音や、幻覚など、患者を著しく疲弊させるようなことから守るためである。
普通この病気の場合、面会できる人は家族に限られる。
友達でもよほどのことがない限り不可のはず。
智恵子の場合、面会にいつも訪問したのは光太郎だった。
結婚してからの2人の生活


2人の結婚生活についてユニークな逸話が残っている。
もともと智恵子は、人前には出たくない性格ではあったが合理的に物事をやってしまいたい人だったようだ。
ある時、洗濯をして物干しに干すことが智恵子の役割になった。
その時にこともあろうに彼女は、自分が着ている服も、全て脱いで素っ裸になって洗濯してしまったのである。
多分、天気の良い日で半日もあれば洗濯物が乾くと踏んだのだろう。
その間、裸で過ごしたとのこと。
この逸話は本で読んで知っていたのだが、もう50年近く前の話。
例えば一人暮らしなどで、誰にも会わないつもりであれば、裸でいようがさほどの支障は無いだろうが、それでも夫のある身の上で、女性であるにもかかわらず、平気でそのようなことができるあたり、智恵子の気持ちの一端が垣間見える。
また、高村光太郎は潔癖な性格らしく、お金、とりわけ小銭等は一晩消毒液につけて使用したと聞いた。
要するに、どこの誰が触ったか分からないようなものを自分が素手で触るなんて事はありえない そう考えたらしいのだ。
光太郎の普段のこだわりというか性格がチラリと見える。
2人が貧しいながらも元気で楽しく暮らせたのはおそらく最初の10年ぐらいだったんではなかろうか。
智恵子には結核の持病があったと聞く。
それが良くなったり悪くなったり。
病気が悪くなると彼女は自分の故郷である福島県の実家に帰って数ヶ月間療養したようだ。
田舎に帰ると病気は回復して、また東京に戻る暮らしをしたようである。
やはり東京暮らしはストレスが溜まり、また体力的にもきついものがあったのではないか。
東京生まれの東京育ちの光太郎は、そのような病弱な智恵子をかいがいしく支えて暮らしたのである。
最新の研究ではストレスから逃れて健康維持するためには自然の中に入ってひとときを過ごすのが良いようだ。
世の中には、アウトドア派なる人たちがいっぱいいるが、自然の中で過ごす癒しの感覚を本能的に理解しているのかもしれない。
智恵子は田舎に帰ることで健康が維持できていた。
智恵子抄で語られた2人の物語


もともと色盲が持病であった智恵子。
絵の世界で成功する事は叶わなかった。
そして2人の生活は智恵子の闘病とそれを支える光太郎の物語になっていった。
智恵子抄で様々な詩が紹介されているが、それらは皆 闘病の記録。
光太郎は文筆活動によって自らの生活を紹介するとともに、自分自身の智恵子に対する愛を確かめていたとも言える。
この作品は夫婦愛に殉じた男の切ない物語と言える。
詩集を読めば事細かに2人の暮らしや、それぞれの胸の内がわかるというもの。
しかし側から見ても、それは切なく、苦しく、悲しい物語と言えるだろう。
高村光太郎にとって智恵子は生涯をかけて惚れ抜いた女性。
彼女の中に自分が思う理想的な女性を見ていたようなのだ。
それは生き生きと活動的でもあり、献身的に自分を慕ってくれる女性。
そのことへの自分自身の応えが智恵子抄だろう。
智恵子が亡くなってからの光太郎の暮らし



智恵子が亡き後、光太郎は智恵子の故郷である福島県の山奥に移り住んで1人で住んだ。
すでに、還暦を超え、彫刻家や詩人としても成功していた光太郎は様々な取材を受けることもあったようだ。
その時によく聞かれたそうだ。
“寂しくはありませんか? ”
はっきり言ってデリカシーに欠ける質問だろう。
しかし、光太郎の答えは決まって、
“そんなことはありませんよ。いつも智恵子がそばにいるような気がするので”
そのように答えたと聞く。
光太郎は69歳の時に最後の作品となるべき女性像を作る。
モデルは言わずと知れた智恵子。彼女の概念と内面を表しているとされる。
多分に哲学的な意味を持った作品。
作品は力強い2人の女性で描かれるが、ロダンの影響を受けた高村光太郎の傑作と言えるのかも。
高村光太郎はこの作品の完成の後、3年後、息を引き取るのである。
彼の人生は、まさに妻智恵子との関わりにおいてその値打ちを見出していた。
心から愛する女性がいて、不幸にして先立たれるが、その彼女の思いを一身に受け止めながら晩年を過ごす。
芸術家としてはこれ以上ないぐらい、理想的な人生だったかもしれない。
クリエイティブな仕事をする人なので、他人の評判に一喜一憂することなどありえない。
信じていたのは自分自身に備わった感性と情熱だったろう。
また、そういった高村光太郎の人となりを心から愛した女性が智恵子だった。
お互いの心の中に培われた芸術家としての連帯感。
現代ではほとんどお目にかかることのない殉愛の物語である。
まだ20歳になるかならないかの私は、このような人生に随分と憧れていたフシがある。
すでにあれから半世紀近くも経っているので、自分自身の心の中に、あの時感じたリアリティーが果たして今も残っているかどうか、胸に手を当てて考えてみて、このブログを書いている。