8月に入ると終戦記念日を始め、広島長崎の原爆記念日も近い。
歴史を考えたときに誰が著名な人なんだろうと最近よく考える。
今回、記憶をたぐるのは湯川秀樹博士。
日本人初のノーベル物理学賞を受賞している。1947年のこと。
戦後まもなくのことで、彼がちょうど40歳の時。
実は今までの物理学の概念をがらりと変える画期的な理論の発表だった。
そして彼は原水爆禁止運動の急先鋒でもあった。
戦前は、日本でも原爆製造の話があったのだ。
この時すでに物理学者としての地位を築いていた湯川は、日本国から招聘を受けて意見を聞かれている。
もし戦争が終わらずに原爆研究を続けたならば、あるいは湯川が製造に関わった可能性も実は否定できないと言う。
そのことについても少し考察してみたい。
目次
ノーベル賞を受賞したπ中間子理論
この理論を簡単に説明するのはちと難しい。
これは量子力学の今は定説となっている理論だが、予備知識が必要なのだ。
それはほかならぬ宇宙全体を支配している何種類かの力。
大きく分けると4つ挙げられる。
- 重力
- 電磁力
- 弱い核力
- 強い核力
これを見ても何が何だかわからない人は多いはず。多分高校レベルの物理かな?
特に1番最後の強い核力が難しいと言えるだろう。
順番に説明すると重力が1番弱い働きなのだが、これは ものとものが自然に引き合う性質を表している。
よく言われる万有引力の法則の引力も重力の1部と言えるだろう。
働きは穏やかで1番弱いとされるが、宇宙物理学で 最後の物理法則で ものを言うのは実はこの重力である。今流行のブラックホールもこの重力による産物と言える。
2番目の電磁力はこれは単純に磁石の力と考えられる。
磁石のプラスとマイナスが引き合う関係が電磁力と呼ばれていて、これはすでに最近の科学ではなくてはならない領域。
次に来るのが弱い核力と強い核力の話。
この2つは、どちらも原子の中での物質の様子を論じた力。
物質を細くしていくと最後は分子と言う単位になっていくが、それをさらに細かく分けると原子になる。
原子は人工的に作り出したものも含めると今は118種類ぐらいだろうか。
原子は中心にある原子核と外側を回る電子でできている。
弱い核力は、原子核と外側を回って電子を結びつけている力。
原子核はプラスの電荷を持っており、外側を回る電子はマイナスの電荷なので、プラスとマイナスで引き合っている。しかしそれぞれは光速で運動しているので、単独で取り出すことにはならない。
実はどこにいるかがはっきり分からないけど、でも間違いなくいる。
確実ではないので、このことを“ハインゼルベルグの不確定性原理”と呼んでいる。
実はあの有名なアインシュタイン博士は、このはっきりしない原理をとても嫌っていた。
確率でしか表せられないようなものは、物理学とは呼ばないと言って、心情的に受け入れてなかったようだ。
さて湯川博士の研究になるが、強い核力について言及したものである。
原子の中には原子核があって、それが陽子と中性子でできている事まではわかっていた。
この陽子はプラスの電荷を持っている。中性子は電気的には中性。
このプラスの電荷を持った粒と中性の粒がなぜ原子核として1つにまとまっていられるのか、それはこの世の中で最も強い力で結びついている。
その事は長く疑問とされてきた。
湯川秀樹博士はここに画期的な理論を打ち立てたのだ。
実は陽子と中性子はいつも電気のやりとりをキャッチボールしていると言うのだ。
つまり陽子からプラスの電荷を中性子に向かって投げる。
するとプラスの電荷を投げてもらった中性子は陽子に変わる。
投げた側の陽子は中性子に変わる。
このときのボールの役目をする小さな粒があるはずだと彼は結論づけた。
それが、π中間子。
プラスの電気を持って、陽子と中性子の間を行ったり来たり。
このやりとりこそが強い核力の正体。
彼はこの理論をわずか27歳の時に発表している。
この時は太平洋戦争直前で、戦前の話。
既に理論物理学の世界ではアルベルトアインシュタイン博士の相対性理論が世界中で注目された頃。
理論物理学は数学的な思考によって物理法則を考えていく学問。
結論から言えば、数学を心底好きな人でなければ到底務まるのものではない。
しかし数学好きの人には、順風満帆で数学に取り組めなかった過去もあるようだ。
それはほかならぬ学生時代。
湯川の通った学校の数学の先生は、テストの答案で教えたこと以外の回答をしたときにはたとえそれが合っていたとしても✖︎にしたらしいのだ。
研究心が旺盛で自分で様々な数式を考案できたとしても、それを全て却下されるのならば学問に対する意欲を失ってもやむを得ない。
そのような時代が何年かあったと聞いている。
このエピソードは実はあのアインシュタインにも当てはまった。
アインシュタインは小学生の頃、算数を教えてくれた先生のことが大嫌いで学校を退学になっていたらしいのだ。
天才物理学者が算数が嫌いで退学になるなど前代未聞である。
心配したアインシュタイン少年のおじさんなる人物がやってきて、少年にピタゴラスの定理を証明するように問題を出してみたところ、少年は1時間ほど考えてみて、その証明問題を見事に解いて見せたんだそう
。
それを見たおじさんは、アインシュタイン少年が学校に行かなくても十分な学力を備えていると判断。特に学校に戻るようなことを進めなかったと聞く。
アインシュタインは実は理論物理学者になってからも、数学的な思考は自分だけの力では不十分と考え、専門の数学者を計算要員として雇っていたようだ。
単純に考えて、先生の能力を超えていただけだろうと私は思う。
数学を教える先生だから優秀とは限らない。
数式を操る力は記憶力と、想像力と両方を根気よく駆使する力から生まれる。
天才たちの一端がうかがえる。
戦後はアメリカに招かれてアインシュタイン博士とも親交が


湯川は大学で物理学の研究を始めて、若くして画期的な理論を構築したのだが、勉強のための様々な書籍は外国から取り寄せてそのまま外国語で読んでいたようだ。
調べてみると、その取り寄せた書籍代の請求書を奥さんが預かり、奥様の実家の方で負担してくれていたと聞く。
湯川秀樹は婿養子で、医者の家系に入ったのでお金には不自由しなかったようだ。
物理学の研究は一見お金がかからないように見えるが、様々な本を手に入れなければならない。
それも全て外国語の文献になるだろう。
こうした内助の功があって、湯川はノーベル賞を受賞するに至るのだ。
ノーベル賞を受賞するにあたっては理論だけではなかなか受賞理由とはならない。
湯川の理論を裏付けるだけの実験結果を発表した学者がいた。
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彼もまた1950年のノーベル物理学賞受賞者である。
アインシュタインが湯川秀樹と初めて会ったときに、湯川に向かって謝ったのだそう。
「私の作った理論によって(相対性理論)、君の国の大勢の人々の命が失われた。
心から謝りたい。 」(原爆投下を指している)
涙ながらにこう語ったと聞く。
この2人は原水爆禁止運動の代表ともいえる人たち。
生涯にわたって原水爆禁止運動を推進していた。
貴重な科学的な業績を人殺しのために使うなど絶対に許せないというのが彼らの立場だった。
また湯川はノーベル賞受賞後はアメリカに招聘されて研究生活を送るのだが、最初は行くのをためらったと聞く。
単身赴任は嫌だったようで、それを察したアメリカ側は、奥様と一緒に来てもらって大丈夫ですよと伝えたらしい。
妻と一緒に行けるのならば行ってもいいなとそう思ったようだ。
仲の良さそうな家族の雰囲気が伝わってくる。
湯川は奥さんととにかく仲が良かったと聞いている 。
典型的な昔の亭主関白型の男性だったのだろうか。
彼は婿養子のはずなのだが、家庭的なこと、身の回りの世話は全て奥様がやってくれていたのだ。
戦前戦中戦後 たどりついたのは原水爆禁止運動
やはり原爆や水爆で大勢の人が理由もなく死んでいく姿は耐えられなかった。
アインシュタインを始め著名な物理学者たちは皆この非人道的な兵器に異を唱えていた。
科学者として、人殺しの片棒を担ぐなどまっぴら御免と思ったようだ。
実は、戦前 湯川は日本でも優秀な物理学者として軍関係者にもその名は知られていたのだ。
知っている人もおられるだろうが、日本でも原爆製造の計画があった。
ただし、これはあくまでも計画で基礎研究に少し毛が生えた程度。
実際に製造するためには設備も材料も全く揃わなかったのだ。
その時に研究のために意見を求められていたようだ。
アメリカでは様々な物理学者や技術者が結集して原爆を3基作っている。
そのうちの1つがアリゾナ砂漠で実験用として爆破された。
残りの2つは言わずもがなである。
広島と長崎で実証済み。
もしここで日本が降伏しないようであれば、次々と原爆を製造してさらに投下する予定があったと聞く。
無差別殺人以外の何物でもない。
このように殺戮がエスカレートすることに真っ向から否を唱えた。
日本に帰国してからは、原子力委員会の委員になったこともあるが原子力を推進することに甚だ疑問を感じていた湯川は体調不良を理由に 1年ほどで委員を退任している。
晩年は生物学にも興味を示し、また和歌を読んだりもしていた。
最新鋭の物理学の第一人者でありながら、その精神は驚くほど日本的だったと言える。
日本人が世界に誇れるインテリジェンスと言えるのかもしれない。
まとめ
肺炎をこじらせて81年に亡くなった湯川秀樹。
ここは京都の名刹知恩院 。
法然の開いた浄土宗の本山である。
このお墓の撮影をした人は、社務所で湯川家の墓のありかを聞いたらしいのだが、個人の事なので教えられないと断られたのだそう。
何日か通って、お墓参りに来ていた人たちに聞いて何とかたどり着いたようだ。
ここに奥様と2人安らかに眠っている。
私が小学生の頃、湯川秀樹の伝記を読んだのである。
それは小学生向けの本で、確か小学校3年生だったと記憶しているが世界中の探検家を10人ほどピックアップしてその中の1人に湯川秀樹が紹介されていた。
子供向けの本なので1日もあれば一冊読めてしまうのだが、実は末尾に大人向けの詳しい説明文が載っていて、これは中学生以上大人でなければ読めないような小さな字で複雑な内容だったと記憶。
その文章を小学校3年生の私は必死で読み進んで、π中間子論の説明を子供ながらに理解したと記憶。
頑張ればどんなに難しい本でも自分にでも読めるんだと新しい経験で自信を持ったことを覚えている。
このブログで説明したπ中間子論はその子供の頃の記憶を頼りに記述している。
あのアインシュタインが湯川秀樹のこの理論を絶賛したと聞く。
実はこの理論がきっかけで量子理論は画期的に進むことになる。
電子、陽子、中性子は中間子を含めた素粒子の単位に分解されることがわかっている。
ここからはマニアの科学領域だが、6種類のクオークなる存在がある。
最小単位はこことされるのだが、物理の世界では様々な素粒子が発見されており、ここでの基礎研究は日本は世界でもトップのレベルにある。
物理学を進めるためにはこの辺の基礎研究は不可欠と思われる。
理論物理学もそうだが実験的に確かめられるように、様々な機材をきちんと予算をかけて整理し研究を進めることが望ましいのだ。
湯川秀樹の研究はこのような現在の様々な研究に対する姿勢のモデルになったと言えるだろう。
湯川秀樹の弟子たちの時代になっているが、さらにまた進化した物理法則が発見されるのかもしれない。