大雨警報と洪水警報が発令している中、テレビを見ていて流れるのは戦争に関わる放送が多い。
私自身も、この時期になるとどうしても戦争関係のことを思い出す。
今日は図らずも長崎の原爆記念の日。
74年前8月9日11時 2分
目次
長崎にプルトニウム型原爆ファットマンが投下されたのだ。
実はこの爆心地が、ローマンカソリックの名刹“浦上天主堂”。
広島に比べて、長崎の原爆に関わる報道にいつも温度差を感じていたので。
ここで少し調べてみることに。
長崎に落とされた原爆
広島に原爆が落とされた後、すぐに次の投下の計画が実行にうつされた。
それは九州小倉に投下するというもの。
しかし、原爆を搭載したB29が現地に行ってみたところが雲が多くて視界があまりに悪いので、投下を断念せざるをえなかった経緯がある。
実は前日にこの辺を激しく爆撃していたので、その時の燃え上がった噴煙がそのまま残っていたことも理由になったようだ。
何度か爆撃のチャンスを伺ってはみたが、小倉では無理と判断。
次の目標 長崎に向かったのである。
実は長崎も小倉同様、雲が多く原爆投下には不向きとされたものだが、しかし、わずかな時間の隙間でかろうじて目視で現地を把握できたので投下することとなった。
広島についで2度目。
聞くところによれば8月の19日か20日ごろにもう1発を落とす計画だったようだ。
実は、長崎にはキリスト教徒にはどうしても無視できない厳しい現実が控えている。
ここは浦上天主堂に代表されるようにローマンカソリックの古くからの歴史を継承し続けていたのだ。
同じキリスト教徒でありながら同教徒の上に無差別殺人の原爆を落とすことなどありえないことであるはずだった。
しかし、原爆投下当日の皮肉な巡り合わせは、この原爆を長崎へと導いたのである。
当たり前のことであるが、様々な悲劇が生まれた。
冒頭に紹介した写真は現在のローマ教皇フランチェスカ教皇が世界中に配布を命じた写真である。
この写真についての様々な情報は今も捜索中と聞いている。
この少年が誰なのかも不明との事だった。
しかし様々な目撃情報から総合してみると、背負っている赤ちゃんは実はもう既に死んでいる。
少年は赤ちゃんをお弔いするために、つまり火葬の順番を待っている。
これはその時の状況を写した写真のようだ。
このような背景を知ってこの写真を見て何も感じない人はいない。
これは現実に日本で起こっていたこと。
長崎へは多くのカメラマンが訪問していて、様々な写真を記録として撮っている。
原爆直後は日本人のみだったろうが、すぐに終戦が来たので外国人カメラマンも大挙してやってきたようだ。
やけどを負った母親が子供にお乳をあげているこのような写真も過去に何度か見たことが。
日本国民はもちろんのことだが、とりわけ外国の人たちにも見ていただきたい写真と言える。
原爆を投下した後はこうなりますという記録。
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浦上天主堂が世界遺産にならなかったわけ
ローマンカソリックの名刹“浦上天主堂”は被爆直後から再建運動が起こり、現代のようなきれいな建物に建て替えられている。
実はこの被爆した状態の天主堂に対してそのまま記念碑として残そうという運動があった。
そのために、新たな天主堂を建設の土地その他を提供するのでとの提案もあったようだが、実際は瓦礫となった古い天主堂を撤去し、同じ場所に新しく再建したのだ。
実は、破壊された状態をそのまま保存しておけば世界遺産として登録されたかもとの報道も多かったのだ。
では、なぜ、場所を移転して記念碑として残さなかったのか。
調べてみると、この浦上天主堂を管理していた団体が、周り、とりわけアメリカに気を使ったからとの意見がちらほらあった。
つまり、そのままの残骸を残すのは正直良くないと指摘を受けていたようだ。
本来ならば歴史、戦争、多数の犠牲者これらの理由で遺産として残しておいて何らおかしくはなかったのだが。
実際は、 当時の世界情勢などを考慮して、そのような反核とか反戦とかのメッセージは控えるように圧力がかかったと見る。
先のブログでも書いたがアメリカは原爆を投下した張本人ではあるが、決して謝罪などはしない。
尋ねてみたところで原爆投下の理由をひたすらまくし立てるだけ。
しかしここで、面白いことに気がついた。
少なくともこの原爆投下で多少なりとも罪悪感が生じている気がする。
それが証拠に、これらの原爆に関わる様々な遺物を残したくないとそのような意思表示がされたこと。
正々堂々大威張りで自信を持って言えることならば、絶対に否定などしないだろう。
やはり、2度の原爆投下に罪悪感を感じているのだなと私は判断した。
戦後74年が経っており、もうすでに過去の話となって記憶が徐々に薄れていく中、今更 責任うんぬんなど議論を蒸し返したところでむなしいばかり。
ここは、未来へ愚かな歴史としての語り部としての責任を果たすしかないのではないか。
アメリカに配慮した浦上天主堂を奉じる人たちを 支持したい。
波風を立てたところで、亡くなった人たちへのお弔いとはならないから。
どうしても未来へ伝えるべき事柄
ローマンカソリックの80年代のヨハネパウロ2世教皇。
彼はローマ教皇に就任した直後から世界中を平和のために行脚したことでよく知られている。
もちろん日本へも来ている。
彼が日本の原爆病院を見舞った時に、その患者に投げかけた言葉がある。
「どうか私の罪を許してほしい」
彼は原爆投下をしたその責任は自分にあると言って、その患者の手を握りしめてその場に泣き崩れたと聞いている。
側近のものがなだめるのも聞かずに、大声で泣いていたと。
ローマ教皇にしてみれば、アメリカの原爆投下の計画に携わった者たちはすべて皆キリスト教徒として自分の弟子だと そう思っていたようだ。
その自分の弟子が犯した過ちを師である自分が謝罪したい。
この事実を私が知ったのは84年頃だったろうか。
とある1冊の本からの確かあとがきに書かれていた内容だ。
そうか、キリスト教徒とはこういうものかとその時 初めて認識が改まった気がする。
事実を知っている者として、そのことをごく普通に明かしただけではある。
終戦記念日が近い。
私たちが知っておかねばならないことがまだまだ多く存在するようだ。