昨日は終戦記念日で、全国あちこちで記念の行事が行われていたようだ。
実は8月15日を終戦記念日として、今は広く認識されてはいるが、実際に1945年、樺太、千島方面ではソ連軍の一方的な参戦があって、簡単に武装放棄とはならなかったのだ。
いきなり侵攻してきて戦闘を仕掛けてくる。
無防備のままでは、そこに住んでいた日本人を始め大勢の人が亡くなることに。
そのことにギリギリまで抵抗していた日本軍がいたのだ。
彼らにとっての終戦日は8月の21日で武装を解除し、その後は何の事情も顧みられることなくシベリアへ送られた。
これらの非人道的な行為は、今でも語り継がれるところで、日本人の負の遺産とも言えるだろう
目次
樺太での多くの犠牲者
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この人たちは終戦の年の8月の20日、日本に疎開せずに残っていて交換手の仕事を継続していた。
いよいよソ連軍が侵攻してくるとのことで、残っていた12名のうち10名は自殺した。
なお侵攻してきたソ連軍は爆弾や銃撃などで郵便局職員を合計で19名殺傷したとされている。
ソ連軍が樺太に侵攻してくる事は、実はヤルタ会談で密約が出来上がっていた。
8月9日に一方的に不可侵条約を破棄して参戦してきたソ連。
日本ではどちらかと言えばソ連やその指導者を非難する声がとても多いが、調べてみるとよくわかることがある。
実は当時のアメリカの大統領、イギリス首相、ソ連大統領は ヤルタ会談で南樺太をソ連領にすることを初めから密約で決めていた。
ソ連の独りよがりの作戦でない事は実は明らかで、欧米諸国が日本を好き勝手に蹂躙することがあらかじめ決められていた。
そしてさらに、ソ連は終戦後も全く関係なく日本に侵攻し続けて、南樺太ばかりでなく北海道も占領する気だったのだ。
当然、千島列島も日本から自動的に没収と言う形になった。
現在の北海道の周りの島々はこのときの占領実績が反映されている。
返還運動が盛んに起こっていることも北海道人としてよく知っているが、領土問題の進展があったとは思い難い。
返還に向けての活動は、年々厳しさを増していると言える。
8月の15日は内地その他では一般的にこの日で戦争は終わったとされているが、それは嘘である。
終戦の前後、樺太にいた一般人などは北海道へ緊急疎開することとなり、その時には、中国から日本に帰ってきた引揚者たちと同様の苦労があったと聞く。
樺太からの引き上げは、とにかくソ連兵に見つからないこと。
このときのソ連兵の圧倒的なガラの悪さは、世界中の知れ渡るところであり、もし見つかれば略奪、強盗は当たり前で婦女子は暴行を受けて殺されることも当たり前だったようだ。
見つかれば辱めを受けて殺される!
そう思った日本人の若い女性たちは逃げられないと悟ったときに自殺するものも多かったのだ。
真岡郵便局の女性交換手たちもそのようなことを考慮しての行動だった。
しかし軍事作戦に関わる兵隊たちが、山賊や盗賊と何ら変わらないと言うのもあまりにもひどい話。
これが旧ソ連軍の実態だった。
引き上げ3船の遭難
私の出身地はこの地図にも載っている日本海側の小平町という所 。
樺太からの引き揚げ船がこちらの港を目指してやってくることが多かった。
実はこの時攻撃を受けて大勢の犠牲者が出ている。
魚雷攻撃だと、私が子供の頃は発表されていて、どこの国の潜水艦かは分からないとの事だったが、今は歴史がすべてを明らかに。
このときにこの海域で作戦行動をとっていたのはソ連の潜水艦2隻。
ちなみにこの時に魚雷を発射した潜水艦は沈没していく船から多数の乗組員が海に落ちたのをわざわざ浮上してきて、機銃掃射で皆殺しにしている 。
この時、引き上げ3船は、実は民間徴用船でわずかだが機銃の装備を持っていた。
潜水艦からの攻撃を受けたときに、応戦したと聞いている。
しかし、プロの軍人の攻撃を素人が受け止められるはずもなく、沈没させられたと聞いている。
小平町を始めとする留萌管内の海岸線には何箇所かの慰霊碑が建てられている。
こちらの慰霊碑では様々な団体が法要を行って、おみたまに対するお弔いのご供養を捧げている。
実は私もほんの数回だけれど参加したことがある。
やはり夏の暑い時期に行うのでそれなりに大変な部分はあるが、当時のことが思い出される法要となる。
引き上げ船の話は子供心によく聞いていた。
戦争が終わってからも多数の犠牲者が出てどこの国かわからない潜水艦が引き揚げ船を沈没させたとのこと。
そしてその時に亡くなられたご遺体が、自分たちの前浜に大勢打ち上げられたとのこと。
私の親たちの世代は、そのようなご遺体を収容する作業にあたった人もいたようだ。
この当時、周りの軍隊のあった主な港からは、保有していた手榴弾を始めとする様々な爆弾を日本海の沖合に投棄したのだ。
投棄された様々な爆弾は、さしたる月日も立たずに海岸に流れ着いた。
地元の人たちは、届け出ることもせず、魚の漁をするためにその手榴弾などを使った人もいたと聞く。
ほとんど知られる事はなかったが、やはり事故があったらしく、爆死した人もいたと聞いている。
占守島での戦い
占守島では終戦後ソ連軍の侵攻を受けたがために、応戦せざるを得なかった。
千島列島のほとんどはずれにある島だが、ここでもソ連軍の侵攻があって、それは領土拡大を目指すスターリンの方針の一環だった。
彼自身の命令で多くの人命が粛清された。
彼はグルジア出身でスターリンは レーニンに付けてもらったあだ名だった。
野心家だった事は間違いない。
そして当時のアメリカ大統領ルーズベルトや、イギリスのチャーチルとも緊密に連絡をとっていて、日本をどのように攻略するかをこの3人で考えていたようだ。
私的には、20世紀の3大悪人とされるスターリン、ヒトラー、ポル・ポトと同じように名前が上がってくるのにルーズベルト、チャーチルがいる。
彼らはポル・ポト以外はヒトラーが敵のように見えるかもしれないが、人命を軽く見ていた点で、同じ穴のムジナと言えるだろう。
実際、スターリンルーズベルトチャーチルはとても仲良しの3人組だったのだ。
日本をスケープゴートにして、あわよくば自分たちの利益をさらに追求する。
彼らは20世紀前後の帝国主義時代の申し子だったのだ。
日本だけを悪者にすれば、彼らが諸外国でやってきた様々な活動が正当化されると思ってきたのだろう。
戦後すでに74年が経った今、当時極秘とされた情報も今はことごとく明らかにされている。
その情報によれば、真珠湾攻撃の不意打ちも実はアメリカの策略によって演出されたことが明らかになっているのだ。
私が思うに、今更 戦争責任うんぬんなど意味がないと。
とにかく信じられない位の大勢の人たちがなくなっているのだ。
その失われた命に対してそれなりの敬意とお弔いの気持ちを捧げるのは、生き残った者として当然の責務と考えるからだ。
今も世界の情勢で見ると、戦争はなくならないばかりか ますます挑発的な行動が増えて、日本のそばでも一触即発と言える。
もとより、戦争を経験していない世代である。
そのような悲惨な事実を、実体験したことのない人たちに対しては、より確かな情報公開と、未来への責任ある行動が求められるのではないだろうか。
人が死ぬ事は、経験すればわかることだが、想像を絶する悲しみだよ。