昨日、“なつぞら”が終わって、物語の最後の方でなつと一久さんが12年後に作る、“戦争を生き抜いた少年少女の物語”って、高畑勲が監督した1988年公開の「蛍の墓」
原作野坂昭如で、1967年の直木賞を受賞した小説。
はるか昔だが、オリジナルのこの作品を読んだことが。
実は、自分から進んで読もうとしたわけではない。
大学の時の先輩が「この小説を読んだことがないなんて後れてるぞ」と。
その時、野坂昭如は、テレビでへたくそな歌を歌ったり、サングラスをかけたままインタビュー番組などに出てちょっと不良っぽいイメージでよく知っていたのだが。
その作家がどれほどの作品を作っていたのかは知らなかった。
「作品はテレビで見る彼のイメージとはまるで違うよ。」
その一言で読もうとしたのだ。
その作品を原作としてアニメが作られたのは20年後。
予告編しか見ていなかったものを、YouTubeで先ほど確認全編鑑賞させてもらった。
目次
野坂昭如の戦争体験をもとに作られた物語
作家“野坂”はいつ文章を書いているんだろうと思うくらい、よくテレビで見ていたと思う。
彼のトレードマークはサングラス、そしてタバコ(ショートピースだと思った)、後は酒。
彼について回るイメージはこれらで、テレビ出演をした時もスタジオに入る前に結構いっぱいやっていたらしく、大体 出来上がった状態で撮影に臨んでいたようだ。
また、へたくその歌を歌っていた記憶もある。
“マリリン・モンローノーリターン”が有名だろう。
かなり奇抜な歌だと記憶する。
あーやって、マイクを持って人前で歌ってみたかったのだろうか?
レコーディングもこなしているので、上手い下手は別にして歌手のつもりだったと思う。
個人的に、彼の歌を1度だけうまいと思ったことがあった。
それは“黒の舟歌”を歌ったとき。
あの歌は男と女の情念を歌った歌だが、歌心が分からなければ絶対に歌えないだろう。
ものは試しで、歌ってみるとよくわかる。
およそ人に披露できるレベルにするためにはかなりの歌手でも難しいはず。
作家“野坂昭如”は“戦後闇市派”と呼ばれた。
彼の作家としてのアイデンティティーは戦争体験にある事は間違いないのだが、関西の神戸 三宮あたりが出身地でそこで戦争体験を。
彼は昭和5年生まれなので、終戦当時は15歳。
少年時代の最も多感な時期を終戦直後の混乱期に過ごしていたことに。
小説“蛍の墓”は、テレビで見る野坂昭如のイメージからはほど遠く、繊細で不思議なわかりやすさを備えた読み易い文章で心の中に響いてきた。
彼の文章は流れるように書かれていたと記憶する。
あの当時日本では彼のような境遇の少年はいっぱいいたわけだし、不幸な境遇で亡くなった人も数限りなく。
戦争直後はまさにそういった時代だった。
物語の中で妹“節子”は、栄養失調が元でなくなってしまう。
そしてその妹を抱えた兄は、おそらく妹への愛情も多少はあったろうが兄弟として、又、兄としての責任を果たさねばとの思いで妹を世話したのに違いない。
しかし、14歳ほどの少年が4歳の小さな女の子を世話できるはずもなく。
ましてや暮らしは野宿。
ちょうど夏の頃だったので、外でも多少の寝泊まりはできただろうが、いかんせん、今とはまるで時代が違うので、食料その他全て自分で見つけて自分で準備をしなければならない。
結局のところ、4歳の妹は兄が知らないうちにひっそりと息を引き取るのだ。
妹の亡骸と一晩添い寝をした後、兄は妹を自ら火葬に伏す。
その1連の流れが淡々と描かれる。
このような事態を経験するものは、人にもよるだろうが、感情がショートしてしまって喜怒哀楽の反応をしなくなることが。
兄の“清太”はそんな状態だったのだろう。
やがて感情を失ってしまった兄は自ら生きる希望をなくしたかのように生存のための努力すらもしなくなってしまう。
そして駅構内で他の浮浪児同様、息絶えることに。
物語はそうした描き方で終わる。
原作の小説を読んでからおよそ50年経っているので、記憶はかなり曖昧だが、とにもかくにも悲しい物語、苦しいエピソードとして記憶に残る。
アニメになるとこうなる
アニメとして見たときには、派手な部分はまるでない。
戦争中の体験を、兄と妹2人だけになったそんな状態を淡々と描き続ける。
高畑勲の描き方は、彼自身のリアリティーとして、その時の登場人物がどのように感じて どのように振る舞うかを克明に描ききる。
この物語は喜びや悲しみの部分も当然あるが、1番の見所は妹節子が徐々に衰弱して亡くなった後、兄清太が感情を失いつつ、そのまま命すらもなくしてしまう。
その状況のリアリティーを描くのは、かなり詰めた演出をしなければモノにはできないだろう。
実際に、妹のためにこしらえたお粥など、妹は食べることなく死んでしまうのだが、それは兄が妹が亡くなった後、自分で食べてしまうのだ。
スイカなどもそう。
妹にひと口食べさせたそのひときれはそのまま残しているが、残りは自分で食べてしまうのだ。
本当に悲しければ食べ物など喉を通らないが、(一般的にはそう思われている)
しかし人それぞれだろう。
ものを食べる行為を、無機的に無感動に行う事はあるかもしれない。
もちろん極限の状態でのことなので、ケースバイケース。
食べる行為に特別な感情移入はあり得なかった。
そういったことを想像させるようなアニメの作りになっていた。
演出監督高畑勲の底力
高畑勲は演出と監督が専門。
自ら絵を描く事は無い。
すべてアニメーターに指示をして、出来上がってきたものの良し悪しを判断する。
彼が行うのは、絵コンテで記号のような絵で状況を指し示すだけ。
そして、彼自身のポリシーとして、見ている人がどう感じるかが極めて重要。
それは誰でも考えそうだが、宮崎駿は見ている人が感じることよりも、自分自身がどのように描くかが最重要と考えていた。
高畑勲と宮崎駿は大喧嘩をした事でもよく知られる。
平気で締め切りを遅らせる高畑に対して、宮崎は予算その他全てを気にしてアニメーション制作に当たっていた。
宮崎駿のインタビューにあった。
「大抵、腹を立てる事はないが、高畑勲だけは何度か私を激怒させたことがある」と。
「それだけ、彼の存在は大きかったし、本音で語り合えた仲間だったから。」
宮崎駿は高畑勲を“パクさん”と呼んでとても仲良くしていた。
ちなみにこうも言われていた。
高畑勲は一旦自分がこうだと決めたら絶対に曲げなかったんだそう。
なつぞらの中でも一久さんはその通りに描かれていたと思う。
一久さんのこだわりは周りのスタッフを大いにかき回し、疲弊させていたと言える。
それでも、彼のこだわりがあるゆえに作品のグレードは他の追随を許さない位高くなっていったはず。
語り継がねばならない戦争体験
感情を失った状態だったと思う。
清太は両親を始め、妹も失って天涯孤独になってしまうのだ。
最近の言葉で言えばストリートチルドレン。
こういった浮浪児は神戸だけではなく東京でも山ほどいたはず。
なつぞらのなつたちも戦争孤児であり、浮浪児だったのだ。
物語の原点はここからと言うことに。
“蛍の墓”は、わかりやすい文章で書かれた戦争の1つのエピソードを描いているが、その運命の流れは全く容赦ない。
戦後のどうしようもない混乱の中で幾多の命が不条理に失われていく。
それがいいとか悪いとかではなく、そういった事実があったと厳しく描ききっている。
この火垂るの墓に関して様々なレビューが書かれていた。
その中に、
“とても良い作品だけど、あまりに悲しいのでもう二度と見ません”と。
そんな記述が1つ2つあったと思う。
私はこの年にして様々な情報のアンテナを張っているが、戦争体験は今を生きているものも責任として語り継ぐ必要があると考える。
もう終わったことだからで片付けられることでは無い。
ほとんど何もわからずに死んだ人だって山ほどいるのだ。
それをなかったことになど絶対にできない。
そして歴史の様々なページは、きちんと伝える努力をしなければおよそありえない方向に捻じ曲げられてでたらめな捏造として後世に伝わるのだ。
それゆえにきちんと語り継ぐ責任があると考える。
もう、事実関係はほとんど検証のしようもないのだ。
おそらくは、啓蒙運動の形で様々な戦争体験が語り継がれるのだろう。
芸術の秋にはふさわしいのかも
この映画は、多分にアニメーターたちのやってみたい感が現れた作品。
好き好んで人が見る作品ではないだろう。
題材としてチョイスした高畑勲はやはり頑固者と言える。
なつぞらでおなじみだった奥山玲子さんや、安田道代さんも映画のエンディングにはしっかりと名前が連なっている。
彼女たちの業績の1つと言える。
芸術に触れたいと思うならば、どんな形にせよ、作った人の熱意が伝わるようなものを鑑賞したほうがいい気がする。
商業ベースで、人の受けを狙ったようなものは芸術作品とは言い難いので。
ちなみに、YouTubeで検索すると全編そのまま”火垂るの墓“はアップされていた。
これはと思うムキはいちど見てみるのもありかなと。