正直なところ、最近は読書をすることがほとんどなくなって、ちょっと気後れ気味。
やっぱり本が読めてなんぼだと思うので、活字離れが自分の中でも進んできてるのかなと思うことしきり。
多分、今から25年位前になると思うけど、たまたまテレビでやったドラマに阿刀田高原作の小説があった。
名付けて「東京ホテル物語」
原作は同名の短編小説集である。
その中の1つに“マルガリータの夜”というのがあって、それが原作となっていた。
それ以降、原作を見ることが多くなって阿刀田高ファンに。
目次
日本ペンクラブの会長を務めたことが
日本ペンクラブは1935年、初代の会長が島崎藤村で、実は外国からの要請があって外務省が主体で設立されたようだ。
我々が知っている著名な作家“川端康成”など有名人が会長に名を連ねる。
ネットで検索してみるとよく出てくるのが“浅田次郎”
彼は“阿刀田高”の後を継いで会長を引き受けている。
日本の文壇を牽引する役目を担っていて、ここの会員の中から様々な賞の選考委員などが選ばれるようだ。
阿刀田高もいくつかの賞の選考委員を引き受けている。
日本の分文壇の中では何人かいる重鎮の1人と言えるだろう。
確かテレビのキャスターなども務めたことがあると聞いたが。
テレビで拝見した事はあまりない。
スパイスの効いた短編が信条
最初に読んだのが東京ホテル物語なので、そこから芋づる式に様々な作品を買って読むことに。
最初に感じたのは、わずか数ページで物語を完結させるものが多い事。
要するに短編である。
その中で、少しユーモアがあり、若干のエロスもあり、読むものをして飽きさせない。
特に最後のオチのところで巧みに纏め上げるのだ。
読んで得した気分になるのも阿刀田高の小説の特徴でもある。
1冊、数百円レベルで買える文庫本が私が読んでいた本なので、作品が発表されてから半年位たたないと文庫本にまでは落ちてこない。
そして、私の本棚には、今でも20冊やそこらはあるのではないか。
多分、記憶の中から消えたものがかなりあると思うが、文庫本コーナーはざっと思い出しても100冊以上はあるはずなので、数えてみたらどれくらいになるのだろうか。
1冊買ってもすぐに読んでしまうので、別のものが読みたくなる。
そうやってしばらくの間は、多分数年間だったと思うが阿刀田高ファンになっていた。
小説の本文もそうだが、あとがきとして様々な人のコメントが載せられている。
その中から知ったのだが阿刀田高は小説を目指す人たちのための教室も開いていたようだ。
特に女性ファンが多かったと聞く。
小説家教室なども開いていたようだ
阿刀田高曰く
「小説とはすなわちディティールです。」
つまり、どれだけ様々な状況を隅々まできちんと言葉で表現できるのか。
それが小説家としての彼流の真骨頂のようだ。
様々な描き方をするのだが、名前なども手を抜かずにきちんと固有名詞を苗字名前まで決めて文章に起こすのが理想的と言っている。
つまり、言葉にしたときにどれだけリアリティーが出るのか。
そういうことを言いたかったに違いない。
そういいながらも文章のひとつひとつに必要以上の感情移入は読む人に受け入れられないとも言っていた。
例えば男女の濡れ場のシーンなど。
女流作家などはあまり得意でないとしているが、必要以上に感情移入するから文章になりにくいのだと。
どうすれば状況がうまく伝わるかと言うと、要するにやっていることを客観的に感情移入せずに説明すれば良いのだと。
なかなか想像しにくいが、阿刀田高の小説の中には不思議とそういったエロチックな部分も出てくるが、描き方にしつこさとか、くどさとか、そういったものが除外されているのでドキドキしながらも普通に読み進めることができる。
ここで、感情表現にあまりこだわらないのがコツらしい。
浅田次郎などとも親交が
ペンクラブは単なるサークルではなくて、文筆活動をする人たちの行って見れば諮問機関のような務めも果たしている。
様々な政治的な背景や、その時代を代表するような事件などにも言及することがある。
当然のことながら、戦争に関わることには一貫して反対の立場をとっているように見える。
それと様々な発信を見ていると、ものを表現することに対して束縛されることを特に嫌っているようだ。
人権とか、芸術の果たすべき役割とかそういったことに言及した文章も多いと思う。
短編なので読みやすいのが何よりお気に入り
小説を読んでいて、もちろん小説以外の文章でもそうだが、読みにくければ先へは進めない。
読みやすさは何よりも優先されるのかも。
少年の頃、思いがけず文学少年的なところもあった私は、外国文学をよく読んでいたが、トルストイなどの小説はとにかく名前を追うだけで著しく読みにくさを感じたもの。
あのロシア人特有の名前が最初から最後まで一貫して続くのだ。
あの固有名詞を一つ一つ頭の中に描くことが思いのほか苦痛だったことを思い出す。
それは日本人であっても同じで、読み進めるのが苦痛になるような文章だって結構あるのだ。
もちろん文章を読む力は、読む人の個人的な能力にも大きく左右されるので、一概には決めつけられないが、私が感じるのはすらすら読めるか読めないか。
動物関係の作家に“畑正憲”さんがいるが、あの“むつごろう”さんは文字を書くときには一字一句升目を1つずつ埋めるようにして文章を書くらしい。
むつごろうさんの本もとても読みやすくて、文庫本を大抵のものは読んだ記憶が。
阿刀田高の小説にはそのようなわかりやすさが最初についてくるので、どんどん読み進めると言える。
さて現在84歳とずいぶん高齢になられた。
それでも奥さんともども写真で見る限りは元気そうなので何より
既に老境に入っておられる人は作家の中ではかなり多いと言えるが、長生きして文筆活動にぜひとも勤しんで欲しいもの。
最近の風潮としては活字離れがとても進んでしまって(ライバルはインターネット)、なかなか本を手に取って見ることが少なくなったが。
私の中では本が読めるか読めないかはかなり重大なことなので、いつでも活字がそのまま追えるような能力だけは持ち続けたいと考える。
しかし浅田次郎もそうだが、彼らの小説を原作にした映画がなんと多いことか。
やはり日本の文化芸術を牽引している人たちだと改めて認識する。