くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

スカーレット 給食が始まった時代

 

昨日からの続きで、川原家に居候としてやってきた青年。

少しずつ彼の生い立ちが紹介されることに。

満州からの引き上げ兵。

お父さんが大阪で面倒を見て、l助けてあげたいきさつが。

演じている佐藤隆太。

少し控えめな演技で、心を病んでいる青年の役柄を上手に表現。

さて、彼の存在は実は喜美子ちゃんにも大いに影響を与えることになるのだ。

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目次

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喜美ちゃんの1番の楽しみ給食❣️

【BROOK'S かんたん ぬか美人】

 学校給食が試験的に始まった時代

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主食は持参する おかずのみ提供

どうやら学校給食が週2回ほど試験的に始まった時代のようだ。

およそ2種類ほどのおかずが提供されて、ご飯は家から持ってくるスタイル。

弁当のように持ってくる子もいれば おにぎりにしてくる子。

裕福な家庭の子だとパンを持ってくる子もいたようだ。

ちなみにスカーレットの中の喜美ちゃんは 何もなし。

給食だけを食べるスタイル。

しかし食べられるだけ良い方で、この当時いくらぐらいの給食費だったのかはまだわからないが、給食が食べられない子もいたようだ。

やはり無料で提供にはならなかったようだ。

学校の給食費は今は数千円レベルだろうか。

私のところでは確か5000円と聞いたが。

驚くほど安いのが給食の良いところ。

私の時代でも給食の記憶がうっすらと残る。

小学校4年生の時から、脱脂粉乳を利用したミルクの給食が始まったと覚えている。

確か学校の理科室で、大きな窯が2つぐらいあって、そこで脱脂粉乳にマーガリンとかを入れて温めて作っていたはず。

1クラスが40人ほどの所帯だったので、5リットルほどのジョッキに2つ位割り当てだったような気がする。

これを当番の生徒が一人ひとりのアルミの茶碗に注ぐのだが、とにかく大きなジョッキなのでうまく注げなくてこぼしまくる。

雑巾の出番が各クラスともひがな1日で懐かしい思い出だ。

中学に入ってからは汁系のものが一品だけついた記憶が。

弁当は普通に持っていかなければいけなかった。

私のところは田舎だったので、まともに給食を食べた記憶はあまりない。

高校に入ってからはそういったものは全くなくなった。

居候となった復員兵 草間宗一郎

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草間宗一郎 ストレスのために軽いうつ病を発症

草間宗一郎、彼の経歴が物語の中で少しずつ語られるように。

ストレスを抱えたがために、どうやら少しうつ病の傾向がある。

のんびりと穏やかに良い空気を吸って生活すれば、治るんではないかと医者の話。

その言葉通り彼の面倒を見ようとしたお父さん。

彼は東京出身で大阪の大学に行っていたらしい。

そして親戚のツテで満州鉄道で仕事をすることに 。

そして終戦を迎える。

満州からの引き上げ兵との設定。

番組ではこの程度しか語られていなかったが、ある意味幸運な人だったと思う。

この当時、満州で終戦を迎えたものは、大抵の場合、ソ連軍につかまってシベリア送りにされた人が多いのだ。

一旦シベリアに送られたならば、日本へ帰還することなどかなり難しくなってしまうし、何よりも死亡率が極めて高くなるのだ。

そのことを経験していたのか いなかったのか。

彼は、スカーレットの最初の登場人物の中で重要な役割を果たすキャラクターだと聞いている。

学校の生徒全員が給食を食べられたわけではない

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家が貧乏なので給食費が払えない!

 川原家はお父さんが働きに出たものの、貧しいことに変わりはなく毎日食うや食わずの生活。

また、居候が1人増えたことで、家の中では食料がすぐになくなることになり、学校の給食費ももし請求されたとしても払える可能性が極めて低くなったのだ。

そうなると、喜美ちゃんの給食にも多大な影響が出ることに。

周りには給食が食べられない子もどうやらいたようなので、喜美ちゃんも給食を辞退しなければならない状態になる可能性が。

 喜美ちゃんにとっては一大事。

なんとしても唯一の楽しみ“給食”だけは死守しなければ。

戦後は誰もが貧しかった

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当時の食事風景

終戦当時の食事の風景と言えばこんな感じだろう。

ちょっと大きめのボールの中におかずらしきものが入っているようだ。

そして、お母さんが茶碗に盛っているのは山盛りのご飯。

遠くからの映像でわかりにくいが、ご飯はどうやら白い飯ではなさそうだ。

この当時はサツマイモを混ぜたり、かぼちゃを混ぜたりしてかさ増ししたご飯が当たり前だったのだ。

そしておかずらしいものが準備される事はあまりなくて、とにかくご飯である程度お腹を膨らませるしかない。

昔の1日分の1人の食料を調べたことがある。

そうするとびっくりするのは、1人分の米の割り当てが1日に3合なのだ。

今日日、1日米を3合を食べると言ったらかなりの大食漢と言われるだろう。

育ち盛りの子供じゃあるまいし、どんなに肉体労働をしている人でも2合位と思う。

要するに、満足なおかずが用意できなかったのだ。

今はおかずが中心になるので主食の米は昔の半分程度で済んでいるようだ。

時代の移り変わりとは言え、大変な差があったように思う。

しかし、私たちの先祖は終戦直後はたいていの人が、こんな貧困に耐えて暮らしてきたのだ。

今からは想像すらできないことだが、調べてみると写真を始め様々な情報が検索できる。

自分で言うのもなんだが、かつての生活の中に、今に通じる学ぶべき事はいっぱいあるような気がする。

「骨盤ウォーカーベルト」