キリスト教の世界では、なにがしかの儀式のときには賛美歌を歌って神様を称える。
仏教のそれに相当するものは長い間、読経だと思っていたが、実は、経典読誦はこれは法供養といって賛美歌の意味とはちょっと違う。
ずいぶん前から知ってはいたが、声明こそがキリスト教の賛美歌に相当する作法なのだ。
つまり、声明は基本的には歌を歌うこと。
目次
様々な流派のある声明
実は声明の歴史はとても古くて、奈良時代の東大寺の大仏の開眼供養の時にも披露されたと記述が。
この時代は遣唐使の前、遣隋使の時代じゃないかな?
それぐらい古い頃から日本には伝わっていた。
それ以降発展してきているので、大陸から伝わったものから日本独自のものに変化していったことが十分考えられそうだ。
大きな流派がいくつかあるが、弘法大師空海以降の真言宗、ないしは天台宗で大きく2つに分けられるだろう。
今あるのはこの2つの流派からさらに発生したいくつか。
流派の違いはあっても、お唱えする歌唱はほとんどの場合、仏の功徳を称えるものとされている。
そう思って聞くと、キリスト教の賛美歌とその性質は変わらないと言える。
即興で歌が作られる事はほとんどないはず。
たいていは楽譜にきちんと残されていて、その都度師匠から弟子に伝えられる感じになるだろう。
楽譜だけ見ただけではほとんど音楽を思い浮かべる事は不可能。
西洋音楽の楽譜ならば楽譜だけで如何様にも音は奏でることができるが、声明はそうはいかない。
私もほんの何回か練習を受けたことがあるが、かなり手強いと言える。
楽譜もその時いただいたが、ちんぷんかんぷんで全く音を思い浮かべることができない。
先生のお手本を聞いて、ひたすら丸暗記して繰り返すことに。
それ以外に覚えるすべは無いように感じた。
何よりもクラシック音楽の“なに調”と呼べるものがない。
つまり、先生の発した声がその時の調子となるのだ。
日本の民謡と同じで、文字の横に様々な記号が並んでいて、それで発声方法を指示している。
代表的な四智梵語
こちらは有名な“四智梵語”の楽譜。
私が習ったのもこれだが、この楽譜を見ても音を思い浮かべることができなかった。
先生のお坊さんについて何度か練習をしたが、ものになった気がしない。
今でもいろんな法要で時々この四智梵語を聞くが、さすがに音を聞くと自分でもなんとなく節回しが体の中に入っている気がする。
次の音が想像できるから。
ちなみに、日本の民謡の楽譜も表記方法はこれと一緒だと言える。
五線譜があるわけではない。
歌詞を書いた紙の横にその一つ一つの文字に記号が書き加えられている。
あの有名な“江差追分”など、素人を集める講習会があるが、そこにはこれと同じような楽譜が準備されている 。
楽譜に合わせて先生が歌って見せるが、素人がものになる可能性は著しく低いだろう。
それでも、日本の伝統文化の1つと言えるはず。
こういった音玉が日本人の精神の一端を形成していると言える。
実際の音を聞いてみるとこんな感じ
実際の音はこんな感じ
音を聞いてみると一目瞭然。
YouTubeで検索してみるとこちらのお坊さんのがヒット。
他にも山ほどあるが、どれもコンサート用に編曲されていたりするので、本来の発声とは、少しひねってあって私の耳には本物っぽく聞こえなかった。
こちらの声明はお坊さんの発声の横に楽譜が出てくるので、楽譜の記述と音と比較して判断することができる。
もっとも声明らしい表現だと思う。
日本の音楽の原点
日本にも様々な音楽が伝わるが、そのもとになるものはおそらく声明ではないか。
ここで紹介した映像だと表現はソロで行っているが、私が聞いたものは大勢のお坊さんたちのユニゾンで聞いた。
何十名かの演奏。
さすがに聴き応えがある。
しかも何曲か演奏してくれるので、聞いていて退屈する事は無い。
仏教の音楽なので、キリスト教系の西洋音楽になれた耳には少し違和感があるかもしれないが、聞く時はただひたすら自分の感性に従って聞き入ることにする。
法要でない限りは、自分が気に入らないと思えば直ちに辞めてしまえばいいし、気にいればずっと聞き続ければいいのだ。
いろいろなものを聞いてきたおかげで、どんなものを聞いても、私的には納得できる世界。
かつて日本の文化を担ってきた仏教。
今は葬式などを始めとする儀礼的なものに その活動は終始しているが、精神的背景を考えると、日本人の歴史というか、情念というかそういったものを伝えることができる大切なアイテムだと言える。
この年にして、学ぶべきものはまだまだたくさんあると考えている。
今日はたまたま私の尊敬する“大阿闍梨”の3回忌の法要だったので、そこに参加したところが、とても荘厳な声明を聞くことができた。
懐かしい気持ちと、様々なアンテナを張り続けて情報を得ている私の探究心とが妙に入り混じったわずかな時間だった。