たまたま昨日見かけたマリリン・モンローの特集番組。
彼女の事は何度か調べたこともあったので、大抵知っているとは思っていたが、昨日のテレビで改めて認識することが。
いまでは都市伝説とも言われる彼女の謎の死因。
いまだに死亡原因がはっきりされることがないのだが。
彼女の一生について賛否両論だったのはよくわかるが、彼女が実際のイメージとは内面が全く別な人物だったことが改めて確認。
彼女の隠された様々な事柄をもう一度確認してみることに。
目次
- 驚くほど過酷だった生い立ち
- 13歳以降周りから注目されることに
- 16歳で最初の結婚
- 芸能界からのオファーでメジャーになることを決心
- つけられたあだ名おさがわせ女優
- 様々なスキャンダルの間で
- マリリン・モンローを評価する
- まとめ
驚くほど過酷だった生い立ち
幼い頃から母1人子1人で育てられたようだ。
1926年生まれなので世界恐慌真っ只中の頃。
働いても一向に楽にならない暮らしに、ついに母親は精神に変調をきたし、幼いマリリンは孤児院などで暮らすことに。
親の愛情を知らずに育ったと言っていいだろう。
小さい頃はとにかく痩せていてみすぼらしかったと聞く。
つけられたあだ名が“サヤインゲン”。
細い体型の所々にわずかばかりの膨らみがついているような。
またこの頃の彼女は俳優になる以前で金髪ではない。
ブルネットが彼女の本来の髪の色。
どこにでもいそうな平凡な田舎の娘さん。
そんな印象だったようだ。
13歳以降周りから注目されることに
彼女が13歳位になって思春期になったくらいから、周りから突然注目し始めることに。
それは何よりも彼女自身の可愛らしさと、少しずつ女性としての魅力を醸し出してきた体型から。
彼女を調べてみると身長体重からスリーサイズまで全て明らかに。
1926年6月1日に生まれたマリリン・モンロー(本名ノーマ・ジーン・モーテンソン)。身長164cm、体重53.5g、スリーサイズはB94 W61 H86。ぽっちゃりした体型で、大きなおしりと長くない足というコンプレックスを、毎朝のジョギングやウェイトトレーニング、そして体のラインを極限までにセクシーに見せるポーズを研究して、「永遠のセックス・シンボル」としての地位を掴みとった。36歳の若さでこの世を去ったが、いまもなお世界を魅了し続けるマリリンのグラマラスな軌跡を「モンロー・スマイル」とともに辿る。
彼女はスタイルの良さで一躍有名になったことがあるので、さぞかし素晴らしい体型の持ち主と思いきや、もともとはぽっちゃり体型で、決してスタイルの良い子ではなかった。
しかし、自分自身が突然周りから注目されることになった彼女は、自分自身のきれいに見えるためのポイントは何かをよく考えて、とにかく努力をして理想的な体型になるように様々なトレーニングを積んだとされている。
16歳で最初の結婚
周りからちやほやされて、少し浮ついた感じの彼女を見て周りの人は彼女に誰か結婚相手をと探してきたのが最初のご主人。
ちなみにマリリン・モンローの最初の結婚は16歳。
ご主人は21歳。
今ならば、ままごとのような2人だが、当時の馴れ初めを考えるといわゆる恋愛結婚の駆け落ちのようなものではなく、どちらかと言えば周りの人が一緒になることを勧めたお見合い結婚のようなもの。
マリリン・モンローが幸せになることを願ってのオススメだったのだ。
しかしマリリンはこの後も、そのスタイルの良さと可愛らしさから様々な雑誌のオファーがかかったり、果てはハリウッドからもお呼びがかかることに。
そしてロサンゼルス行きを夫に相談したところが、夫は大反対。
華やかな場所で自分の可能性を試してみたかったマリリンは、夫と離婚することを決意。
独身となって身軽な状態でハリウッドへ活動の拠点を移すのだ。
芸能界からのオファーでメジャーになることを決心


ハリウッドの映画会社からオファーが来たことで 、女優としての道が開けるチャンスがやってきた。
しかしオファーがあったとは言え、今で言うところの大部屋女優。
主役で抜擢される事はほとんどなく、その他大勢の中の1人として、ちょい役での出演がたまにあるくらい。
この頃から彼女は芸名“マリリン・モンロー”を名乗るようになり、また髪の毛を金髪に染めてイメージチェンジをすることに。
我々がよく知る“マリリン・モンロー”はこの辺からの彼女。
またそのイメージ戦略で、男性諸氏を喜ばせるような発言が多かった。
そして自分自身のステップアップのために様々な映画プロデューサー、テレビのプロデューサーなど、求められれば躊躇なく今で言う“枕営業”に応じたようだ。
一体全体、彼女の体の上を何人の男が通り過ぎたのだろうか。
この頃から既におさがわせスキャンダル女優のレッテルを貼られていたのかもしれない。
自分の利益になるのなら、何のためらいもなく男に体を任せる。
彼女はそうしてスターダムにのし上がったっていったのだ。
つけられたあだ名おさがわせ女優
マリリン・モンローは様々な逸話が残っているが、その中でも自分自身が演じたい役柄を自分の意見としてしっかり言うことを始めた最初の女優かもしれない。
作品によっては、爆発的な人気が期待できる彼女を、映画監督も映画会社も使いたかったのだ。
そのことをよく理解していて、しかも彼女の見かけとは裏腹に、彼女自身の向上心は並々ならぬものがあった。
自分自身の弱点が教養不足にあることを認めると、驚くほどの貪欲さで様々な著書を読み漁るのだ。
ほとんど知られてはいないがマリリン・モンローはびっくりするほどの読書家。
彼女と会話をしたことのある者ならば、彼女が見かけとは全く間逆で、知性に溢れ、豊かな感性に満たされていることを思い知らされることに。
しかし、このような彼女の優れた感性も実は彼女ならではの弱点があって、正しく評価される事はあまりなかったようだ。
精神疾患だった母親の遺伝的なことも受け継いだせいか、マリリン自身も精神疾患的な不安を抱くことが多かったのだ。
彼女の30歳近くになってからの特徴は度を過ぎた不眠である。
やがて不眠が続くとどうしても睡眠薬に頼らざるをえなくなる。
そして睡眠薬を多用した彼女は朝まともに起きられることもなく、撮影があったとしてもまともに時間までに現場に入れる事は稀になったのだ。
そして撮影が始まってからも、常に理解しがたい不安に駆られたと言われている。
「セリフがうまく言えないかもしれない。」
「撮影して映画が公開されても誰にも認められないかもしれない。」
そのような被害妄想的な発想は、彼女だけでなく撮影スタッフ、とりわけ監督なども頭を抱える事態になったようだ。
それ故、彼女につけられたあだ名はいろんな意味での“スキャンダル女優”。
とても魅力的な女性ではあるが、とてもじゃないが扱えないシロモノ。
それが彼女について回った評判。
また映画会社との軋轢は、彼女自身が自分自身のプロダクションを設立したことにもよるところが大きい。
彼女は自分で自分の魅力を表現するのに自分流の意見を通したかったのだ。
また、彼女のギャランティーにも不満があったようだ。
そのせいで自分のプロダクションに所属し、モノ言う女優として売り込んだ。
ストレスがかかる中で2度の結婚


彼女の結婚生活は、基本的にうまくいった事は無い。
最後の結婚でもせいぜい4年ほど続いたくらい。
また30歳のこの時の結婚は、妊娠3ヶ月で流産も経験。
気の毒なことだがマリリン・モンローは結婚には向かない女性。
人一倍、男性から愛されたいと願ってはいるが、その思いを実現するためには、彼女の行動や考え方はあまりにも自分流が強すぎたのかも。
彼女と結婚した男たちは皆、彼女が家庭に入って穏やかな生活をしてくれることを望んでいたようだが、マリリン・モンローは全く間逆の考えを持っていたようだ。
マリリン・モンローは自分自身の存在そのものが商品であることを知り抜いていたと言える。
この当時の女優では、ほとんど行うことのなかった筋トレや様々なトレーニングを自分に課して、自分自身のビジュアルがより優れたものになるよう努力を欠かさなかった。
そして外面的なことだけではなく、内面的にも驚くほどの読書家であることが知られる。
また大スターになってからも、ニューヨークのアクターズスタジオに通って演技の勉強を1からやり直ししたのだ。
このときの演出家が“リーストラスバーグ”である。
ストラスバーグはマリリン・モンローの類まれな非凡な才能を、直ちに見抜いている。
「彼女はあのマーロン・ブランドと同じ感性を持っている。」
「こんなすごい女優はかつて見たことがない。」
一流の演出家をして、これだけのことを言わしめる。
どれほどの優れた才能であったか、見当がつく。
様々なスキャンダルの間で
マリリン・モンローでついて回るのは様々なスキャンダル。
映画関係者やテレビ関係者とも簡単に肉体関係を持ってしまう彼女は、知り合いのつてを頼ってケネディー大統領の愛人を務めていたこと。
その弟ロバートケネディとも関係があったとされる。
あの有名な“大統領誕生日パーティー”での“ハッピーバースデー”はあまりに有名だが、あの時“マリリン・モンロー”が来ることを知った“大統領夫人のジャクリーヌ”さんはこの誕生日パーティーを欠席している。
ちなみに多くの人が見たことのある映像で、今でもYouTubeで簡単に検索できるが、あの時マリリン・モンローは撮影をすっぽかして、しかも、たっぷりと酒を飲んだよれよれの状態であの会場に馳せ参じたのだ。
とんでもない武勇伝と言える。
よくも悪くも“アメリカの象徴”としての振る舞いを彼女は遺憾なく発揮していたはずだ。
彼女にとっては、大勢の人に注目され、賞賛されることが何にも増して幸せだったようだ。
そのことには異論を挟む余地がない。
“幸せな結婚生活を送れなかったのも、彼女自身の目が家庭の中で幸せを探すようなことではなく、常に外側に向かって向いていたから。”
夫となった者にとってはおそらく日々不満が募っていただろう。
ちなみに、2番目の夫ジョーディマジオは、わずか数ヶ月間の結婚生活だったにもかかわらず、マリリン・モンローへの愛情を失うことがなく、晩年に至るまで頼ってくる彼女に何かと援助の手を差し伸べていたようだ。
そして、彼女が36歳で亡くなった後、しばらくの間、彼女の墓参りをしていたとも聞いている。
マリリン・モンローを評価する


マリリン・モンローは若い頃から愛読書として“解剖学”の本を読んでいたようだ。
それは彼女のような体型のものがどうすればきれいに可愛く振る舞うことができるのかを解剖学の見地から研究していたようだ。
あのモンローウォークと呼ばれる歩き方も、彼女自身の腰のラインにぴったりした服を着て、その上で腰を振って歩く。
聞いた話では彼女は必ずハイヒールを履いていたが、セクシーに見えるようにハイヒールのかかとをわざと片方短くして段差をつけて履いていたような。
つまり、より腰の動きが強調されるようなことをかなり綿密に画策していた。
まとめ
歌手マリリン・モンローを私は高く評価している。
このレコードは私が30歳になる前に買ったものと記憶。
この中に収録されている1ドル銀貨が大好きなもので、それを聞きたくて買ったと覚えている。
この頃、様々なシャンソン歌手、ゴスペル歌手、ジャズ歌手などを聴く機会があった私が、わざわざマリリン・モンローを選んだのは、ひとえに彼女の歌いっぷりに相応のうまさを感じたから。
世の中ではほとんど、彼女のコケティッシュな歌い方しか知らないだろうが、きちんと正式な歌唱を聞くことをお勧めする。
驚くほどうまい。
One Silver Dollar (Theme from "River of No Return" Original Soundtrack)
レコードを所有していても残念ながら今はこのようなデバイスでは聞かないので。
改めてYouTubeで検索。
私の中のマリリン・モンローはこの歌手マリリン・モンロー。
青春の思い出と言えるだろう。