くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

今更だけど赤穂浪士討ち入りについて調べてみた

 

年末と言えば忠臣蔵というくらい有名な時代劇。

“播州浅野家” 浅野内匠頭が吉良上野介に切り掛かったことで始まるお馴染みの物語。

この物語の歴史はどうやらとても古い。

実際の事件はちょうど1701年3月に起こっている。

そして有名な討ち入りは1702年の12月15日(旧暦)

この敵討ちの物語は忠臣の物語として、長く語り継がれてきたが最初に物語が作られたのは1750年頃と聞くから、かなり古い。

事件が終わって何十年かたった後に物語としてまとめられたようだ。

とにかく映画その他、さまざまに取り上げられているので、大体、日本人なら知らない人はいない。

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目次

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時代劇ではお馴染み

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浅野内匠頭長矩ってどんな人?

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播州赤穂の城主 35歳で切腹

 彼の先祖を調べてみると歴史はかなり古い。

豊臣秀吉の時代には30万石ないしは40万石レベルの大大名。

そして豊臣秀吉の正室北政所の出身の家柄にもなっている。

実は秀吉が亡き後は、石田三成との折り合いが悪く浅野家は関ヶ原の合戦で徳川方についたのだ。

浅野家は複数の家系に分家したが、そのうちの1つが播州浅野家である。

ここは今の兵庫県。

藩としては5万石。米以外にも“赤穂の塩”は今でも銘柄で有名。

こちらの浅野内匠頭は、わずか6歳で藩主に就任。

つまり若くしてお殿様になった歴史がある。

また結婚も早くて、17歳で奥方を迎え入れている。

実は、さらに調べてみると徳川家の家臣でいながら、有名な刃傷事件の元になった接待係の件と吉良上野介との関係はこの事件が初めてではなかった。

はるか昔にも、同様の役割を幕府から仰せつかって、その役目を果たしているのだが、その時の役目の指南役も吉良上野介が務めあげている。

つまりこの2人は知らぬ間柄ではない。

ここまで調べてみると、我々が知っている忠臣蔵、つまり赤穂浪士の話もどうやら隠された裏の歴史がありそうな気がしてくるのだ。

“ 浅野内匠頭”がどちらかと言えば癇癪持ちと言う表現をされるが、あながち嘘でもなさそうだ。

彼はストレスを抱えこみやすいタイプ。

強いストレスを感じると“胸のつかえ”と言って、呼吸が苦しくなったり、極度に心拍が速くなったり、そしてその体調の悪さは季節の変わり目などでも現れていたようだ。

ちなみに松の廊下の刃傷事件の時は3月の11日で、どんよりとした季節の変わり目で、ストレスを抱える人にとってはあまり良さそうな日ではなかったみたい。

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吉良上野介は敵役

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幕府旗本 4200石の頭領

忠臣蔵で描かれる“吉良上野介”は明らかに悪役。

それは憎らしく描いて、相手の“浅野内匠頭の無念さ”がより強調されるように描く必要があるから。

実際のところはどうなのか。

彼は写真にもあるように彫像が残っているくらい地元のお殿様としては名君だったと言える。

彼は領民にも良いお殿様で通っていたようだ。

ちなみに吉良家は幕府の直参旗本で4200石。

普通旗本と言えば500石から1000石程度のお殿様を指すのだが、ここは4200石でかなりの力を持っていたようだ。

特に江戸幕府は17世紀から18世紀にかけては朝廷との様々な行事を、しっかり行っていこうという方針になっていた。

朝廷と関わるためには複雑な約束事が必要となる。

そのための様々な儀式や作法に、極めてたけていたのが吉良家のようだった。

幕府としては吉良上野介のような専門家を重く用いていた。

上野介は3大将軍の頃から幕府に使え、様々な儀式儀礼でその力を遺憾なく発揮していたのだ。

したがって徳川家からの信望も厚く、また周りの大名からも一目置かれていた。 

事件の発端は?

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松の廊下の刃傷事件を受けてその敵討ちとなった物語

徳川家では年に2回ほど朝廷とのあいだで使者を使わせて、盛大な歓迎の行事を行うことになっていた。

この時に、様々な役割が大名に振り分けられるのだが、浅野家は実はこの時に 接待係を仰せつかっていた。

浅野家に白羽が立った理由は様々あるだろうが、調べてみた限りだと、やはり過去に複数回同様な役割を受け持ったことがあったことが大きいと言える。

これは朝廷からの使者をお迎えするための非常に大切な役割なのだが、調べて分かった事は、なんと『かかる費用は全て接待係が自前で持ち出す』しかないのだ。

『幕府は1銭も出さない』

この当時の幕府はとにかく絶対君主なので、自分が欲するがままに各大名に様々な経済的な負担を強いていた。

参勤交代などもその最たるもので、各大名にとっては果てしなく辛い支出だったと聞いている。

このような接待係を仰せ付かると、莫大な費用が藩財政にのしかかってくる。

軽い気持ちで首を縦に振ることなど、自ら自分の首を絞めるようなもの。

浅野内匠頭はそのようなご時世の事情も踏まえながら、どのような接待がふさわしいのかを吉良上野介に具申していたようなのだ。

実はその時のやり取りで諍いは発生してしまった。

この時代の特徴として、今で言うところの賄賂、袖の下などは当たり前のこととして普通に行われていた。

今ならば収賄罪で厳しく摘発されるが、この当時はむしろ推奨されていたのだ。

どれだけ貢物を捧げることができるかで、捧げた側はより多くの利益を得ることができる。

ありえない話だが、江戸幕府等は基本それが普通で、幕藩体制とはそのようなやりとりで成り立っていた。

内匠頭と上野介はある意味運命に操られてしまったと言える。

切れる寸前の若者と、意地悪をしてしまった年寄りとのやりとりがこのような結果を生んだとするしかないのだ。

そして、この物語は吉良上野介が『かまいなし』とされたのに対して、浅野内匠頭はその日のうちに切腹させられた。

実はこの松の廊下の刃傷事件は、朝廷を招いての大切な行事が始まる直前に起こってしまった。

行事を主催していた“徳川綱吉が激怒した”とされるのもわからないではない。

そしてこともあろうに浅野内匠頭は刀で切りつけたのだが、その刀は実は脇差し。

つまり二本差しと言われる刀の長い方ではない。

脇差しにははっきりってそれほどの殺傷能力は無い。

しかも、本来はこの短いほうの刀はさすことを中心に使われるのだが、内匠頭は激こうしていたせいか切りかかっている。

それほどのキズを負わせることもなく、斬りかかられた吉良上野介は、てむかわなかったことを理由に、無罪方面とされたのだ。

実はこの裁定には浅野内匠頭の“赤穂藩では承服できない”旨の嘆願書なども出されたのだが、結果としてはその日のうちに内匠頭は切腹。

赤穂藩は断絶と相成った。

「骨盤ウォーカーベルト」

大石内蔵助の値打ち

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じっと辛抱してチャンスを待った

大石内蔵助は赤穂藩の首席家老。

彼は藩内の意見を取りまとめて 、主君浅野内匠頭の敵討ちを誓った。

幕府の様々な監視の目を逃れるために、1介の浪人として、妾を囲ってそして酒に入り浸りの日々を送ったのだ。

ここから先の事は、映画やドラマなどで散々描かれ尽くしてきているので、概ねそんなものだろうと想像する。

ちなみに浅野内匠頭と赤穂浪士のお墓があるのは港区の泉岳寺。

ここは曹洞宗のお寺で、今でもこの時期になるとお参りする人が絶えないと聞いている。

このお寺は浅野家の菩提寺でもある。

赤穂の四十七士は吉良上野介の首を打ちとった後、その首を主君の墓前にお供えをした。

これはある意味ホラー。

そこまでしても主君の敵を打ちたかった。

ちなみにこの仇討ちをするまでに2年近くを要している。

直ちに行動を起こしたのでは返り討ちに合う恐れがあったわけだし、何よりも赤穂浪士達はほとぼりが収まるまで待っていた。

この四十七士の仇討ちはまさに命がけの行為。

この仇討ちの後、全員が切腹をしてその罪を償っている。

日本人的美学で言うならば、これ以上の忠心は無いのかも。

そのことがいまだにもてはやされる理由かもしれない。

時代劇と言えば忠臣蔵なのだ。

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実際のところは?

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浅野鷹の羽の家紋

今回改めてもう一度調べてみたかったのは、どうして刃傷沙汰を起こすような事態に陥ってしまったのか。

浅野内匠頭は接待係としていくつかの計画を上野介に提出して指示を仰いでいるが、そのことごとくを頭ごなしに否定されている。

最近の研究では、メンツを馬鹿にされたのではなくてあまりにも莫大な費用を請求されたからというのがあった。

調べてみると浅野内匠頭が接待のために用立てた費用が700両とのこと 。

今の金額で言えば多分7億円ぐらいにはなると思うのだが、そのことを少ないとなじられたのではなかっただろうか。

5万石クラスの大名が捻出できる金額がどれくらいのものなのかは想像できないが、賄賂や袖の下が横行する中でどの程度の出費を計画したのだろう。

この時期の大名としては、このような接待係はできれば受けたくなかったようだ。

それは費用ばかりがかさんで、自分たちの藩を利することがほとんどないとされたから。

このような経済的な、しかも複雑な人間関係のやり取りのストレスを受けた内匠頭はついに切れてしまうのだ。

もともと彼はキレやすい性格だったことも指摘されていた。

しかし、幕府と言う組織の中では、どのような温厚な優れた武将といえどもまともに振る舞える事はほとんどなかったと言える。

結果としてありえない事件が起こってしまって、そしてその事は不幸なタイミングの連鎖を招いてしまった。

徳川綱吉の切腹命令はそれほど理不尽なものとも言えないはず。

刃傷沙汰は厳罰に処すというのが武家諸法度の中にも書かれていたはず。

そのことを考えれば、この事件の切ない裏事情が見え隠れする。

さて、年末になるとこの題材を下にした映画も封切られるようだ。

時代劇を楽しむ観点で、このエピソードを振り返るのは不謹慎だろうか。