くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

70年代に経験した仕事 今だから振り返ることができる

 

 70年代、関東地方で暮らしていた私は様々な仕事を経験させてもらっている。

もちろん正社員で働いたこともあるし、最初はアルバイトからの出発だったことがほとんど。

あの時代の仕事探しは基本的にはアルバイトニュースを見て応募する形で行われていた。

今では同じような求人誌が山ほどあるが、あの当時は駅の売店で売っていた1部50円のこの雑誌が1番の仕事探しのアイテムだったと思う。

目次

お名前.com

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懐かしい 小田急線の向ヶ丘遊園駅の売店で買っていたと思う

小田急線沿線で仕事を探していたね

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かつての向ヶ丘遊園駅南口

 大学在学中に住み始めた住所が小田急線の百合ケ丘だったのでその辺だと仕事を探すのに手ごろな駅が向ヶ丘遊園だった。

もちろん登戸でも良かったんだけれど、何故かこちらのほうの駅のアルバイトニュースを購入したことから始まったと思う。

最初は友達と2人でセントマリアンナ医科大学の動物管理室と言うところで、今で言うと出張スタッフみたいな感じで仕事をすることに。

アルバイトニュースの求人欄は、各地域ごとにまとまっていて、どの地域で仕事をするかでページが違ってくる。

今も昔も変わらないと思うが求人はここでこれはと思うものを見つけたなら、そこへ電話することから始まる。

そういえばアルバイトニュースを買う前にとりあえず自分の履歴書を作っていたと思う。

あの当時の履歴書だと確か写真までは貼らずに作成した気がする。

もう今は履歴書を書くこともなくなったので、思い出の中にしか残っていないが、雑な書き方をすると間違えてしまうので、鉛筆で下書きをして、その後ボールペンで書き直したような気がする。

電話をすると、アルバイトニュースを見た旨を報告して面接する日を決めることになるのだが、たいていはその日のうちに出かけていって面接をすることに。

この頃は、定職について働くなんて事はまるで眼中になかった

とりあえず今日明日食べられること、家賃とかそれなりに払えればいいかなと。

将来設計もクソも何もない

そういった生き方が私の望みだったと言える。

私の生き方は今もその点ではあまり変わっていない気が。

家庭を持った事はあったが、今は訳ありで独身で単身世帯を生きている。

生きるために仕事をしなければなかったので、ニートになっていた期間はごくわずかだったが、あの時のわずかばかりの好奇心で生きていた若者の成れの果てが今の私だなと。

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セントマリアンナ医科大学で実験動物のお世話

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出張派遣の形で大学の5階の動物管理室に勤務

こちらの大学病院の5階と6階に動物実験用のフロアが用意されていた 。

ここへも最初はアルバイトの募集で応募。

1ヵ月ほど働いたところで、長期にわたって働ける意思を表したところが、正社員として採用していただけることに。

4月の半ば位だったと記憶。

この時私が勤めた会社の名前は、ネットで調べてみると今でもきちんと存在していた。

あの時私の仲間だった人たちの名前はもうすでに会社のおもだった人の中には見いだすことはできないが、会社の住所とか変革とかを調べると、まさにその通りだと言える。

私はこの会社が設立した直後にアルバイトとして雇われた人間だったようだ。

設立は1974年の2月とあった。

私はその2ヶ月後にアルバイトで入ったことに。

ここでは泊まりの仕事もあったりしたので、毎月他のアルバイトで生計を立てているものよりはずっと給料が多かったような気がする。

大抵の場合、月に70,000円から80,000円位の手取りだったと記憶。

百合ケ丘のアパートからマリアンナ大学の職場まで、会社から古いけれども車を貸与されてそれを運転して通勤

実は入社して早々に、実験動物取扱のための初級の資格試験を受けさせていただけることに。

大学に通勤はしていても、その大学から仕事を請け負った会社に勤めたわけで、動物の世話をするとの事だが、そのための認定試験みたいなものがその時初めて設けられたようで。

経験年数と、実際の仕事に従事しているかがとても重要だったようだが、試験は東大の安田講堂で行われた

筆記試験と実地試験

この実地試験では生きているいきのいいモルモットをきちんと捕獲することとそのまま質問に答えること。

試験の時は、2つほど質問をされたのだが全て間違えたと記憶。

ダメだ!落ちてしまった と思ったのだがなんと合格していた。

どうも後で聞くと、質問はそれほど問題ではなく、かなりすばしっこいモルモットを問題なくムンズと捕まえられたことが合格の判定だったようだ。

確か120人ぐらい受験をして100人ぐらい合格したと後から聞いた。

道路のメンテナンス下水道専門の掃除屋

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こういった仕事をやっていたね

動物実験の会社は半年ほどで辞めることになった。

今ならそんなことをしなくてもと思うことだが人間関係で嫌いな人ができたもので。

結局はそこを辞めて次の仕事を見つけることにしたのだ。

確か訪問販売の学用品を売る会社に3ヶ月ほど勤めたが、ここは仕事がいまひとつ私には合わなかったので早々に退職。

その後面接を受けてお世話になったのが道路メンテナンスを中心として請け負っていた会社

正確にはその下請けの会社で、請け負っていた親会社の子会社と言える。

こちらはネットで調べてみたところ、今はもうその名前を見つけることができない。

ひょっとしたら近いかなと思う名前が横浜の方であったが、業務の内容が私の在籍した頃とは違うようだ。

ここでは道路のメンテナンスといっても下水掃除が専門の会社

平たく言えばドブさらいのような仕事から、マンホールの中を機械を使って掃除するようなハイテクな仕事も1部含まれた。

とにかく作業服が著しく汚れることが特徴で、また長靴や軍手ゴム手なども必需品

こちらの会社は私と同年代の男子達ばかりで運営していたので、気にいってもらえた私は、3ヶ月ほど経ったところで 正社員にしてもらえた。

正社員になった最初の給料が確か12万円だったと記憶。

アルバイト暮らしでは到底手に入らない金額なので、二つ返事でオーケーしたと思う。

その後も少しずつ昇給をさせていただいたので、21歳から24歳まで勤めたと思う。

その後は北海道に帰ってくることに。

こちらの会社では、アルバイトを数人引き連れて自分の現場を持たされた。

その時に、1日分の仕事をするための経費などもみっちりと指導してくれて、どの程度の成果を出さなければいけないのかもしっかりと言い渡されてきた。

現場に出向いてどのような仕事をするのかは、行ってから決まることに。

最初に渡されるのは図面だけなので、どこをどのように掃除するかは図面で指示された部分の路線で現場に行って状況を確認する。

仕事は昼間する場合もあったが、大抵の場合は交通量の少ない夜間に行われた。

はっきりってとんでもない騒音の機械を持ち込むのだ。

何度か警察に通報されて、その都度事情聴取を受けた記憶がある。

仕事を依頼するのは大抵の場合はそこの役所なので、どういったことをするのかあらかじめ住民に説明しておいて欲しかったのだが、今のように、それほど規制が厳しかったわけではないので、仕事はほぼ丸投げ状態。

車の運転を必ずしなければならないので、ペーパードライバーだった私も格段に運転技術が上がったと言える。

そしてここでの勤務で普通免許しかない私だったが、大型でも何でも自由に運転できるだけのスキルを身に付けた。

それは、月に1回行われる車のメンテナンス

主にオイル交換とかするのだが、先輩たちは絶対に手伝わない。

それは新人である私や、同じようなアルバイトたちの仕事。

その時に大型車両が数台と4トン車が数台

全部で10台ちょっとの車のメンテナンスを行う。

当然運転をして移動しなければならないが、大型免許を持っていない私は最初先輩に頼みに行ったのだが、先輩たちは麻雀で盛り上がるばかりで、私にこういった。

お前ぐらいのテクニックがあれば運転できるからやってみろ

でやったところが簡単に運転できる。

大きさはあまり関係ないのだ。

おかげで免許証にはない車も運転を学ばせてもらえることに。

1日数百円あれば生きていけると考えていたのどかな時代

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横浜の西区 この辺が主な仕事場だったね

この頃から、音楽を始めとする芸術にはとても興味があった

そのためには生活していくことなど、私にとっては2番目位でしかなかった。

大抵お金があったときに自分で買うものといえば、米、味噌、醤油砂糖といった食料品

その次に来るのがコーヒーと、タバコ

今にして思えばコーヒーは新宿の伊勢丹の専門店までわざわざ買いに行っていたのだ。

なんという贅沢。

タバコは働いていた時はお金があったときは主にショートピースを愛飲。 

それ以外はしんせい。

家に帰ればこういった紙巻きタバコは吸わずにパイプを吸っていた。

この当時は、財布の中に100円玉が2〜3個入っていれば、それで充分と思っていたね。

22 3歳位の若者だ。

のどかで良い時代だったと思う。

結局は働いているところが親にばれて、なぜかその時、親が用意してくれた北海道での働き口に興味が湧いてそちらで働くことになったのだ。

北海道での働き口というのが今はもう倒産してなくなったが、ヤマハの下請け会社でピアノの部材を収める会社

ここの会社の音楽に関係した業務内容に興味がわいたのが理由と言える。

現場の仕事は音楽とはまるで無関係だったが。

考えてみれば私はずっとサラリーマンで生活してきている。

特に人生設計も何もなく、生活のために働いてきたと断言できるだろう。

今も貧乏暇なしでいろんなことをしているが、それでもわずかばかりの年金が生活の糧となっている事は間違いない。

長く運転してきた車だが、やがては免許を返納しようかとも考える年頃になってきた。

働くことをなりわいとする人生からいつごろ解放されるのだろうか、この頃ふと考える。

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