戦国時代真っ只中の物語なので、それぞれの国主とも言うべき武将たちは自分たちの領土の拡張を常に画策していた。
この当時の特徴として絶対的な覇権者が存在しなかったこと。
室町時代の末期で、将軍足利義輝に国をまとめるだけの力はなく、地方を任されていた各守護、守護代、またはそれに準ずる武将たちが覇権を争っていたのだ。
麒麟がくるで描かれるのは明智光秀に関わる国々。
今回の第11話で語られたのは、駿河の国の今川家と三河の松平家、そして尾張の織田家の勢力争いに関わるエピソード。
これらの、争いの中で光秀が果たさねばならなかった役割が、物語の中ではあたかも史実であるがごとく語られていた。
目次
今川義元の思惑 織田家の焦り


織田信秀にはどうしても受け入れなければならない人質交換の止むに止まれぬ事情があった。
自分の息子織田信広と松平家の跡取り竹千代との人質交換には応じるしか方法はなかったのだ。
そしてこの時息子信広が全く手傷をおうことなく無傷で帰ってきたことを嘆く。
この時織田信秀はすでに体力は弓を弾けぬほど弱っており、自らの命の期限を悟っていたとも受け取れる。
頼みの息子織田信長も何を考えているかわからないところがあって、自分の跡取りとしてはあまりにも心もとない。
尾張の国内も実は一枚岩ではなく、信秀は自らの亡き後を思案していた。
対する今川義元は勢力を拡大することに極めて熱心で、まず隣の松平家を飲み込み、次に尾張を飲み込むつもりでいたのだ。
この時代はそういった覇権争いのための小競り合いがしょっちゅう起きていた。
これらの覇権争いはその隣の国美濃でも静観するわけにもいかなかった。
何よりも斎藤道三の娘帰蝶は織田信長に嫁いでいる。
もし、美濃と織田の盟約に亀裂が生じるようなことがあればすなわち帰蝶の命に関わる事態となる。
織田は斎藤家に援軍の要請をするが、したたかな道三がそれに応じる事はなかったのだ。
斎藤道三のしたたかさ
実力者斎藤道三といえども自らの美濃国内を意のままに操れたわけではない。
織田家との密約は必ずしも、家来たちの賛同が得られていたわけではなかった。
息子の斉藤義龍をはじめ、いまだに密約を破棄するように促す声は多い。
織田信秀に加担して兵力を応援することなどおよそままならない事態。
かといって娘帰蝶の嫁ぎ先の願いをそのまま却下するわけにもいかず、米ぐらいは送ることにしようと。
そしてその申し開きを明智光秀にさせようと仕向ける。
明智光秀の苦労


斎藤道三の使いで織田信長の下を訪ねる明智光秀 。
そこで述べる口上はまず平謝りに謝ること以外にない。
援軍を頼まれていたのにそれを断るわけだから。
しかし、断られた織田信長の反応は驚くほど冷静だったように思う。
家臣の平手政秀は信長とは違って非常に憤慨していたような印象。
織田信長はこのようなピンチに陥っても、冷静に物事を考えられる不思議な性格に映った。
戦って勝てぬ相手とわかれば、戦わずに和議を結ぶべきだと。
そのための手立てとして考えられるのは将軍からの執り成しがあれば何とかなるのではと思い至る。
一見自分勝手で好き勝手やっているように見えて、実際はそれぞれの力関係や、自分にとって1番利益になる方法が何かを常に気にしている。
驚くほどの冷静さ。
1時の怒りや悲しみなどに流されることなく一番可能性のある間違いない方法を模索できる。
織田信長の真の実力がこの辺にも発揮されているのかもしれない。
斉藤義龍、土岐頼芸、そして将軍足利義輝への働きかけ


斎藤道三に織田信長からの提案を相談してみたところが、金がかかると一蹴される。
斎藤道三は自分自身が損することには絶対に手出しはしない。
彼の息子斎藤義龍はそんな父親の反応が大嫌いだったのだ。
光秀の頼みを聞き入れて義龍は土岐頼芸のもとへ、将軍宛の症状を書いてもらえるように頼みに行くことに。
この時にも一筋縄ではいかない。
土岐頼芸は斎藤道三の傀儡みたいなもの。
自ら操られていることをよく知っている頼芸は斎藤道三を著しく嫌っていた。
しかも、道三が守護職を乗っ取ろうと画策している事まで把握している。
そのことを知った上で頼みを聞こうと言うことに。
条件は義龍に対していざと言う時は自分の父斎藤道三を討ち果たすことを約束させるのだ。
このときのやりとりが原因とは言わないが、斎藤義龍は父斎藤道三を討ち取ることになる。
そしてその時には明智光秀に義龍側に加担することを約束させるのだ。
さて、そういった回りくどい約束事を踏襲しながら将軍足利義輝へ、織田と今川の争いを止めるための号令を出してもらえるように書状を届けることができた。
このときの足利義輝には将軍としての力は残っていなかった。
持ち合わせていたのは高い志だけ。
もちろん何人かの側近は控えてはいたが、少なくても将軍としての威光を発揮できるだけの力はなかったのだ。
将軍家もこの足利時代の終わりには内紛に次ぐ内紛が続いていて、常に京都に常駐できていたわけではなかったのだ。
時々は都を抜け出て近江などに逃げ落ちなければならなかった。
ちなみにこの後描かれるとは思うがこの時の将軍足利義輝は京都でその時政権の実権を握ろうとしていた松永久秀らの息子に討ち果たされることに。
この時わずか29歳。
その後の室町の最後の将軍は足利義昭となっている。
この最後の将軍は織田信長によって追放される。
足利時代はここに終了するのだ。
今描かれている年代から20年弱でそういったことが次々と起こってくる。
本能寺の変までおよそ20年ほどしかない。
抜きん出た力を持った武将が現れるまであとわずか
後の歴史に出てくる織田信長、徳川家康らはこの時代から既にその名を知られることに。
最初に名前を馳せるのは織田信長。
今日描かれた物語の何年か後にはあの今川義元を討ち果たすことに。
桶狭間の戦いがどのような描かれ方をするのか今から大いに興味はわくが、この時代の人たちは一体どのような考えで行動していたのか。
類稀な合理的精神と、勇猛果敢な闘争心、いかなる苦境にあっても冷静な気持ちを失わない胆力。
3拍子揃った武将はそう簡単に出てくるものではない。
この時代の中では今川義元はその筆頭だったかもしれないのだ。
しかし、歴史はそういった常識と思われることがらをことごとく裏切る形で動いてきたと言える。
歴史物語の面白さはおそらくはその辺にあるのかなと。
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