今日の麒麟がくるではまさに
元木雅弘🆚染谷将太
二大俳優の一騎打ちとも言うべき緊迫した高度な演技合戦。
最初の15分間で今日の物語の全てが語られているのではと思わせるほどの大変な迫力。
斎藤道三は織田信長を殊の外、気にいっていたとそう伝え聞く。
その理由の一端が深い洞察の中から語られていた。
織田信長は斎藤道三の若かりし頃に酷似していると。
そういえば2人とも群雄割拠の中のし上がってきた成り上がり者。
決して下世話な意味ではなく、2人とも他を圧倒するほどの上昇志向の持ち主だった。
目次
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道三対信長
実は織田信長をコーディネートしたのは他ならぬ帰蝶。
父道三は美しいものがお好みだと。
そして黄色が好みだとも。
実はここで信長のシタタカさがよく表れている。
自分の思い通りにするよりは父親である道三を熟知している帰蝶の意見に素直に従っておいた方が1対1の会見に有利なのではと。
その狙いはズバリはまったのだ。
帰蝶が揃えた通りに鉄砲隊その他を準備し、自分はいつもの破天荒な格好で馬にまたがってマクワウリか何かをむしゃむしゃ食べる。
そして会見の場所に到着してからおもむろに準備した衣に着替える。
すべては帰蝶の画策した通り。
そこから先は織田信長が本来持ち合わせている技量がものを言うだけ。
会見は物の見事にぴったりと収まるべきところに収まった。
斎藤道三は帰蝶の婿殿織田信長を心の底から気にいったのだ。
道三は自分の息子斎藤義龍以上に信長を気に入った。
んそしてこのいちどきりのの会見で他の者に理解できないほどの連帯感すら生まれていたと思われる
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織田信長をめぐる尾張国内の憂鬱
この時代の尾張は全くまとまっていなかったと言える。
織田信長には有力な武将たちはもちろん控えてはいたが、信長自身の判断で、家柄に関係なく有能な武将たちを近くに配置した。
斎藤道三との会見でも紹介されていた佐々成政、前田利家など後に豊臣秀吉の頃にも大活躍する武将たちが既に信長の家臣として紹介されていた。
ちなみに織田の軍隊の本体とも言うべき鉄砲隊はほとんどが佐々成政の軍勢。
佐々成政は後に豊臣秀吉と仲違いをして切腹しているが。
織田信長は今川義元と盛んに争っていた。
歴史の中ではほとんど桶狭間の戦いでしか激突は語られてはいないが、小競り合いは常に起こっていて、今川は織田を飲み込みたくてうずうずしていたのが、麒麟がくるでは丁寧に描かれている。
ちなみに信長は今川との戦いで初めて鉄砲を主力に使っている。
村木城の戦いで実践してみせた。
これらの小競り合いはあちこちの武将たちを著しく疲弊させていたのだ。
斎藤道三への応援申し込み
実は今川との戦いで那古野城を留守にしなければならなくなった信長。
その時の自分の居城を斎藤道三に留守番をしてもらえないかと頼んでいる。
自分自身の留守中に他人を城に入れて留守番をさせるなど、当時としてもよほどの親しい間柄であってもなかなかありえない話。
大抵の場合は、自分自身の居城は自前で守った上で応援部隊を出すのが常套手段なんだけど。
信長が止むに止まれない事情とは言え義理の父斎藤道三を大いに慕っていたことがうかがわれる。
実のところ言うと斎藤道三といえども美濃国を完全掌握できていたとは言い難い。
しかしお気に入りの信長の頼みとあって、自らの軍勢を那古野城に送っているのだ。
歴史の研究で明らかにされてはいるがこのときの織田信長は尾張国内統一のために全精力を傾けていたと言える。
もともとの信長1族は決して由緒ある家柄とは言い難かった。
1地方豪族でしかなかったので、よほど人より優れたものをアピールできなければ簡単に周りからの承認を得られにくかったとも言える。
それは信長の父信秀それ以前の時代からそのように振る舞われてきたのだ。
まず尾張国内の統一。
そのために周りの国々といざこざもありつつ、手を結べるところは手を結ぶ。
内政にも外交にも優れた手腕を発揮しなければとても一国一城の主は務まらない。
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斎藤道三を襲った不幸
斎藤道三は息子斎藤義龍とは仲違いをしていた。
反目し合う父と子。
しかし今日の物語で2人の間を取り持っていた愛妾深芳野がなくなってしまうのだ。
この女性は先の守護土岐頼芸の愛妾だったものを道三が下げ渡されたもの。
女性を物のように扱うこんなやり方はどうなのかとも思うが、この時代は男尊女卑で女性はほとんど付録扱いにしか扱われていなかったと思う。
しかし道三は深芳野を心のそこからいとおしんでいたようだ。
しかしそれ故でもその息子義龍とは相入れなかった。
歴史上で言えば斎藤義龍は父斎藤道三を討ち果たしている。
それは血で血を洗う骨肉の親子の争い。
斎藤道三が62歳の時、両雄は木曽川の戦いで1戦を交えることに。
そして父親道三が討たれて首をはねられたのだ。
その首は義龍の家来衆が丁寧に葬ったとされている。
ちなみにこの斎藤義龍は織田信長に討ち果たされることに。
つまり妹の婿殿に敵を取られるのだ。
歴史的に知られているこういった事実の中で、あの明智光秀がどのように行動していたかは実ははっきりとはわからない。
しかし、様々な事情を考慮してみても、これらの歴史的な事件に光秀が関わっていることには違いないと言えるのだ。
さて物語は様々な考察を繰り返しながら先へと急ぐことに。
おそらく夏ごろまでには桶狭間の戦いが描かれるに違いない。
一体どのような描かれ方をするのだろうか。