コロナ騒動でごくたまに仕事はするけれど、基本は家にいて映画を見たり音楽を聴いたり。
そんな毎日の中で思いつくのはかつて見て感動した映画。
と同時に映像に引き込まれながらも話の内容がまるで理解できなかった難しい映画。
実はその中で代表格とも言うべき映画がある。
2001年宇宙の旅
そして続編となった2010年
最初の作品2001年宇宙の旅が圧倒的なインパクトを持って見る者を感動させた。
しかし、その強烈な印象の裏側で話のストーリーをきちんと理解できた人がどれぐらいいたのだろうか。
この年になってからそういったことをふと考えてみる。
目次
映画はキューブリック、小説はアーサーCクラーク


2001年宇宙の旅が初めて作品として企画段階に入ったのは1965年。
アメリカ生まれの映画監督スタンリーキューブリックはアメリカでの活動を諦めてイギリスに移り住んでいた。
かなり個性の強い監督だったようで、プロデューサーに従って思い通り映画を作れないことが我慢ならないと記述にあった。
基本キューブリック監督の映画はイギリスが発祥となっているようだ。
さて映画は1968年に封切りとなっている。
この映画の封切りと同時に小説版としてアーサーCクラークが同名のタイトルで出版している。
作品のイメージを考えたのはキューブリック本人のようだ。
宇宙に関わるSF的な作品を作ろうと様々な思いを巡らせていたと聞いている。
そして出来上がった作品は、映像や音楽はまれに見るほど素晴らしいものだったが、そのストーリーがなんとも理解しにくい。
一体何を訴えている映画なのか。
SF映画でありながら、多分にオカルトの要素も含み、そして神がかり的な表現を用いて見る者をして全く難解だと思わせる。
映画を見たことのある人ならばわかっているだろう。
映画の随所に登場してくる黒い石盤。
あの存在が、実は超自然的な神がかり的な世界と現実の世界を結びつけるアイテムとなっていたようだ。
言葉にはならないメッセージを発していて、人類発祥の時から存在しているという設定。
メッセージの発信者が誰なのかは最後まで語られる事はないが、なんとなく神様か?と思わせるような内容ではなかったか。
実はイギリスで作られた映画
この監督キューブリックの姿を見て時計仕掛けのオレンジの主人公を思い出しはしないか。
あの暴力で世の中を渡り歩いている青年の顔がこんな目つきだったような気がしたが。
この監督は実は古い世代の監督で黒澤明とほぼ同じ世代。
有名になった映画はカークダグラス主演のスパルタカス。
予定していた監督が仕事ができなくなったためにカークダグラスから急遽依頼が回ってきた。
この映画で一躍有名になるのだ。
その後イギリスに渡ってからも様々な作品を作り続けるが、彼が目指しているのは娯楽映画制作ではない。
自分の感じたこと、思ったことをどれだけメッセージとして発信できるか。
そのことのために映画を作っているように感じる。
2001年宇宙の旅では、木星旅行の様子が詳しく描かれるが、その中で絶対に外せないアイテムとしてコンピューターHal9000の存在がある。
この人工知能はあらかじめプログラムに基づいているが学習能力も備わっており、また状況に応じて様々な判断能力と行動するだけの力も備えていた。
実はこのコンピューターが暴走してしまうのが2001年宇宙の旅の中心的なテーマ。
そしてそのコンピューターの暴走に至る原因は続編の2010年で明らかになるのだ。
コンピューターが故障することが、ある意味人類への警鐘とも取れた作品。
当時の最新の宇宙物理学を参照
当時の宇宙物理学では太陽系が生まれた経緯が明らかになりつつあった。
太陽系が生まれた頃、大きなガスの塊が少しずつ回転しながら要所要所にまとまっていく。
このときのガスの質量とガスの回転速度が現在の太陽系の有り様を決定したと言われている。
つまりそれほど多くないが早い速度と遅い速度の中間位で星としてまとまりつつあった。
結果はこうだ。
今よりももっと遅い速度で太陽系が出来上がったならば太陽は今よりももう少し大きく、周りの惑星たちは今よりも小さくこじんまりとした形にしかなれなかったのだと。
もし早い速度で回転した場合は、中心に集まるべきガスは2つに分裂して、太陽が今のように1つではなく、中心に2つの太陽、つまり2連星になったはずだと。
我々の太陽系はどうやらこの2つの中間ぐらいに属していたらしい。
つまり2連星になる直前までガスは集約されたのだが、結局中心の太陽だけに熱核反応が起こって、もう一つの大きな星は点火することなく巨大なガス惑星として残ってしまうことに。
このもう一つの巨大ガス惑星が木星としている。
実は2001年と2010年の2作品はこの物理学の検証をもとに木星を太陽として輝かせるための意思が働いたと設定されていた。
2010年の最後のシーンで木星が太陽として輝く様子が描かれていたのが印象として残る。
なぜ木星を太陽として輝かせるようにしたのか。
それは木星の周りを回っている惑星イオに人類と同じような生命体を発生させるため。
もちろん映画ではここまで詳しくは描かれていない。
これらはアーサーCクラークの小説の中の文章。
なんとなくどこかで誰か高等な生命体の意思があったような作りに。
映像のインパクトが何よりも強烈


ほとんど猿に近かった原始の人類。
しかしモノリスに触れてからは知性に目覚め様々な道具を作り出し、文明を発生させていく。
そのようなシーンが映画の中ではかなり印象的に描かれていたので。
またテーマ音楽もクラシック音楽を使っていたので印象にとても強い。
特にリアルトシュトラウスのツラトストラはかく語りきはオリジナルのクラシックよりも映画で曲が有名になったのでは。
ちなみに60年代で作られた特殊撮影なので、撮影は困難を極めたはず。
今のようなコンピューターグラフィックは全く利用することができなかった。
すべてはフィルムに直接描き込むか、最初から特殊撮影を目指して映画を作るしかなかったようだ。
映画自体は2時間20分ほどだが、これらを映像処理するのに2年近くかかったとされている。
また映像自体も驚くほど難解に作られた。
こういった映画の特徴としては、理解させようという思いで作ってるのではない。
映画は見たままに感じればそれで良い。


キューブリックにとっては、映画は自分自身の感性の表現手段。
彼は、人知を超えた超自然的な力を、どうやら受け入れたかったのではなかろうか。
それは畏敬の念を抱くべき存在。
そして何かを恐れ敬うのであれば、おのずと自らの行動や思考もきちんと律せられるに違いないと。
彼が訴えたかったのはどうやらその畏敬の念。
科学の発展を肯定しながらも、決して暴走してはいけないと訴えたかったのでは。
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映画からうけるメッセージ
映画の中では暴走したコンピューターが乗組員を次々と殺害するシーンが描かれていた。
そしてその中で奇跡的に船長だけが生まれたばかりの姿で生き残っていく。
続編として描かれた2010年は、同じような探索目的で木星に向かったのだがそこから脱出するためには、最初に送られた宇宙船のコンピューターと対話する必要が生まれた。
この続編でロイシェーダーがHal9000 に話しかける。
この木星から脱出するために君は我々に力をかさねばならない。
噴射の手伝いをしてほしいと。
そしてその手伝いをオーケーしたコンピューターは質問をする。
そのミッションの後私はどうなりますか?
君は破壊される!
この時ロイシェーダーは事実を正直にコンピューターに告げていた。
それに対する答えはわずかばかりの間があった後で
わかりました とあった。
実は最初の計画で木星に投入された宇宙船のHal9000は故障したわけではなかったのだ。
最初からいい加減なプログラムをしたがために、途中からコンピューター自身が困り果てて起こした行動だったのだ。
正しく指示を与えれば自ら壊れてしまうこともいとわずにきちんと命令通りの作業をこなす。
2010年ではそうしたコンピューターの不可解な謎の部分もきちんと解明されていた。
そして、木星が太陽に変身する。
そこをテーマに描かれていた。
ちなみに、2010年は1984年の映画。
この続編の撮影は実はキューブリック抜きで行われた。
特に何かの軋轢があったわけではなさそうだ。
キューブリックはどちらかと言えば人と接することが苦手なタイプだったと見えて家から出る事はほとんどなかったと聞く。
しかし、重要な人たちとは常に連絡を取り合っていて、2001年に封切られた映画AIの時は打ち合わせのために何度か監督のスピルバーグを自宅に招き入れている。
この映画は本来キューブリック本人が監督したかったようだが実際は監督が亡くなった後スピルバーグの手によって撮影された。
今ではほとんど伝説的な映画人となっている。
スタンリーキューブリック、様々な映画を撮影しつつ自分の芸術家としてのスタイルを決して変えようとはしなかった。
おそらく驚くほどの頑固者だったに違いない。