くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

実際は不可能と思いつつ、会ってひとこと言っておかなきゃなと思うんだよね

 

今週のお題会いたい人

このお題でブログを書こうと思ったらたくさん会いたい人がいて選ぶのに少し悩んだけれど。

しかしちょっと考えるとすぐに2人に絞られた。

要するに私の両親。

父親は平成13年4月24日

母親は平成21年5月10日

2人の命日である。

ともに膵臓癌で父親は闘病1ヵ月半、母親は1年半を経て亡くなった

実はどうして会いたいかと言うと懐かしいからと言うわけでもない。

本当は生きている間にひとこと言っておかなければならない言葉があった。

それをきちんと言えることなく、なくなってしまったので。

何の事は無いその言葉というのが

ありがとう

目次

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私の実家は4人家族だった

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両親の生い立ちは

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2人とも生まれは道内だが出身は内地からの移住者

私の父親は留萌管内の小平町の生まれ。

正確にはさらに北にある大椴と言う小さな部落

母親は沼田町の五箇山の生まれ

見合結婚と聞いている。

誰かの紹介だったんだろう。父親26歳母親20歳

なんとも若いよね。

さて結婚した翌年には私が生まれているが、その時に誕生日は結婚記念日だったそうな。

何度か聞いたことが。

彼らの両親が2人の新居として海沿いに家を一軒建ててくれたのだそう。

その家は、私も唯一の兄弟弟も生まれた家なので、私の記憶の中にも残る。

玄関が少し広めで、私が多分5歳くらいまで商売をやっていたような気がする。

そして、上がり框があって2部屋広がっていたなと。

右側のほうに水回りがあって、さらにその奥にトイレと風呂場があったと記憶。

ちなみに水道はなかった。

毎日およそ数十メートル離れた共同の水汲み井戸に汲みに行ったと記憶する。

電気は私が小学校に上がる直前ぐらいに通じたと記憶。

つまり生まれて物心つくまではランプで暮らしていたんだろうと思う。

我が家には確かホヤのランプが2つ3つあったと記憶する。

そこに住んでいたのが小学校の2年まで。

その後隣町の小平町まで引っ越したと思った。

父親は農協の職員でごく普通にサラリーマンだった。

かなり辛抱してお金を貯めて家を新築したり、車を購入したりとしていたが、私の学費なども全て捻出していてくれた。

ちなみに私がここにいたのは18歳まで。

私はほとんど通うことのなかった大学に通うために千葉県まで赴き、その後25歳になるまで神奈川県の川崎市に住んでいた。

ほとんど里帰りすることもなく、気ままに暮らしていたのだが、私自身の結婚を機に北海道へ戻ることに。

ちなみに私が長年勤めた会社(倒産してもうないが)は、今現在の私の住んでいる納内町にあった。

昭和60年以降は両親ともにこの土地へわざわざ引っ越してきてすぐ近くで暮らすことになった。

私は今は独身だが、その時は夫婦2人で暮らしていて、その傍で老後を過ごしたいと思ったのだろう。

この土地へやってきておよそ20年ほども暮らしただろうか。

私もこの土地へ引っ越してきてから今の住所はちょうど3度目となる。

両親ともに送ること

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入院してから葬式に至るまで一生記憶に残る

父親も私も体質がとてもよく似ていて2人とも高血圧でしかも糖尿病。

母親はちょうど60歳になった時に大腸癌でいちど大手術を受けている。

結果としてわかったのは、私たちの家系はどうやら癌体質だなと言う事。

父親の癌が見つかったのは平成13年の2月の末。

家族全員で病院に説明を聞きに行った記憶が。

話の内容は全くの手遅れで手の施しようもないとの事。

既に膵臓癌は全身に転移していて、手術も抗がん剤治療もほとんど効果のない状態で。

さて母親を中心に取り決めたもの。

それは病気の事は父親には亡くなるまで隠し通そうということに。

入院したのが2月の28日で亡くなったのが4月の24日なので、2ヶ月弱と言うことになる。

4月に入ってからはほとんど正体不明で、モルヒネを大量に投与しても痛みはそれほど収まるわけではなく、やがては投与したモルヒネが体内から排出されずに錯乱状態を引き起こすことに。

それを防ぐために睡眠導入剤を投与して、およそ3日後だったかな、死亡したもの。

母親のときには、私と弟が病院に呼ばれて病状の説明を受けた。

膵臓癌が強く疑われてほぼ間違いなしと。

父親の時と違って発見は早かったのだが、問題はその病気をきちんと母親に告知したいのでそれを了承してほしいとの話だった。

母親の時は抗がん剤治療が何パターンかあったので、その治療中に同じような病気の仲間たちが控え室に集まるのだそう。

仮に告知をせずに隠してもその治療の最中にばれることが簡単に想定されるので最初から話しておくべきだろうというのが医者の意見で二つ返事で我々も承諾。

そして母親への告知となったが、それは医者からお願いしたが、母親はそのことを聞いて大笑いしていた。

なんだ!おとっつあんとおんなじ病気かい!

先生、わしはあとなんぼ生きられるんじゃ?

この反応にはそこにいた全員があっけにとられたと思う。

後は先生の方からよろしく説明をしてもらったのだが、私たちにはおよそ1年半の余命と言っていたが母親には3年と説明していた。

まぁ大同小異でほとんど差はないと私は感じた。

父親の時は努力呼吸がやがて力尽きてほとんど止まった。

母親の時はまるで小さな紙飛行機がゆっくりと滑空してきて、ふわりと留まるようにコトンと息が止まった。

なくなるときは実に呆気ないもの。

両親ともに見送った私は病気で衰弱していって息絶えるまでの様子が手に取るようによくわかる

もうこの後、自分の身内の姿に遭遇する事はほとんどないと思われるが。

私が学んだ最も大切なこと

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両親の戸籍は既に除籍謄本の扱いになる

私には実は父親との確執があった。

せっかく受験をして入った大学だが、私はほとんど魅力を感じる事はなく、アルバイトに勤しむ毎日だった。

学校に行くのはかなりめんどくさいと思うようになっていたので学校を辞めたい旨を両親に報告したところが、こっぴどく叱られたのだ。

私の中の曖昧ないい加減な気持ちを見てとったのだろう。

しかし言い出したら聞かない私は平然と家を出てそのまま住所も変えてアルバイトで食いつなぐことに。

自分の居所は両親には知らせなかったが、両親が手を回して私の居所を捜索したようだ。

その結果手紙が来ることになって多少は近況報告などもすることになって、私の当時働いていた会社が夜勤中心の会社だったので、そのことを心配した両親が北海道に働き口を見つけて長年勤めた木材会社に出会った。

私が改めて会いたいと思うのは、私の人生の節目の要所要所で必ず手を貸してくれて援助をしてくれた両親にどうしてもきちんとした形でありがとうを言いたいのだ。

相当すさんだ生活もしてきたので、はっきり言ってホームレスになっていても全く違和感ないぐらいの生活をしていたこともある。

しかし、その都度私には救いの手が差し伸べられていたが、その最たるものはやはり両親だった。

そのことも含めてお礼をしておきたいと思うのだ。

残念ながらもう生きてはいないので、私は最後の望みを果たせないで今も生きている

もし会えるならばと仮定してくれるのでそれならばと考えてみた

このままあと何年かすれば私もあちらの世界に行くことになるが、向こうへ行ったら改めて挨拶しなければならないだろう。

その節は本当にお世話になりました。

ありがとうとね。

ただし、いろいろ勉強した私が学んだことを総合すると、あちらへ行った時に果たして親子だった間柄をきちんと認識できるかどうか。

正直な心配事を言うと、実はそのこと。

彼方へ行った時にきちんと両親の前へたどり着けるように今からしっかりと心の準備をしておかねば。