最近は朝6時ごろはラジオを聴いていることが多い。
もっともBoseのお気に入りのラジオが壊れてしまったので、もっぱらネット回線でFM放送を。
たまたま今朝カールマリアフォンウェーバーの魔弾の射手をやっていたんだけれどこれがあまりにも素晴らしく感じて。
そういえばウェーバーはベートーベンよりも若干若い位の世代だったけれど、ドイツ出身のロマン派の著名な作曲家とされていた。
お互い相手のことを十分に理解していたと思われる記述も多い。
この18世紀初頭の頃は、ベートーベン中心にクラシック音楽界は回っていたと言える。
同時期の作曲家にシューベルトもいた。
この3人はそれなりに親交があったものと。
目次
- ベートーベン1770年生まれウェーバー1777年生まれシューベルト1797年生まれ
- 1826年から1年おきに順番に亡くなっていった
- 古典はとロマン派の分類はあっても実際に聞くとそうでもなさそう
- 作曲家同士は思いのほか進行があったのだ
- クラッシック音楽の始まりはヨーロッパの狭い領域だった
ベートーベン1770年生まれウェーバー1777年生まれシューベルト1797年生まれ
ベートーベンが1番先輩にあたるが、音楽史の中では古典派に分類される。
つまり、バッハヘンデルから始まってハイドンモーツアルトベートーベンに至る流れとなっている。
そして古典派音楽の次に来るのがロマン派音楽で、こちらの方の初期はウェーバーとシューベルトがその役目を担っていた。
ベートーベンはどちらかと言えば古典的な作曲方法を踏襲していたとされているが、その作曲のポリシーはロマン派そのもの。
彼はロマン派の扉を開いた人とされてもいる。
よく言われるのはベートーベンは別格で扱われること。
誰もが知っている事実。
ベートーベンは耳が聞こえなかった。
音楽家にとっては致命的なリスクを背負いながら、彼は音楽家として作曲家として成功を収めている。
そういったことも加味されていたかわからないが、ベートーベンの音楽の愛好家は多い。
私のような素人を始め、プロの音楽家たちにも支持され続けている。
しかし普通作曲家はポリシーとして自分の作曲傾向を必ず意識するだろう。
私が知るところではベートーベンは毎日欠かさず散歩に出かけていた。
そこで外の景色を見るにつけスケッチと称して思い浮かんだメロディーを五線紙に書き留めて家に帰ってくる。
そしてそれをもとにほぼ頭の中だけで曲を完成させる。
ちなみに7歳年下のウェーバーは、ドイツで活躍した作曲家だが、彼は父親からいじめとも思えるような厳しい英才教育を受け、10代で著名な音楽家として活躍を始めている。
実はベートーベンに関して彼はずいぶんと意見を述べている。
必ずしも絶賛したものではない。
それはベートーベンの繰り出す管弦楽法は演奏家にとって相当厳しいものであることを皮肉った内容。
しかしプロの作曲家から見てもそれだけのインパクトがベートーベンの作曲方法にはあったと言うこと。
そしてベートーベンはウェーバーの曲魔弾の射手を絶賛していた。
オペラとしてもかなり有名だったがこののびのび感がお気に入りだったと聞いている。
ウェーバー: 歌劇「魔弾の射手」狩人の合唱:狩人の喜びは[ナクソス・クラシック・キュレーション #元気]
今朝聞いたのは多分これじゃなかったかな。
この曲を聴いてとにかく元気をもらった気がしたし、クラシックの名曲ってこういうことだよなと改めて実感させてもらった。
ベートーベンが絶賛したのもわかるってもの。
さてシューベルトとウェーバーも親交があったらしい。
またシューベルトはベートーベンの崇拝者であったことでもよく知られている。
うそか本当かは別として、ベートーベンの批評が欲しくてシューベルトは彼を訪ねたのだそう。
そして自分の作曲した楽曲を見せてベートーベンに批評を仰いだところ。
ベートーベンは褒めちぎってくれたのだが、途中1カ所和声が少しおかしいところがあったらしく、そこを注意したと聞いた。
シューベルトそのことが恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかったとエピソードには残っているのだが。
3人の中ではずば抜けて若かったシューベルトだが30歳そこそこでなくなっている。
この時代は長生きできなかったんだよね みんな。
1826年から1年おきに順番に亡くなっていった
1826年にまずウェーバーがイギリスに演奏旅行に行っている最中に客死。
39歳だった。
食べてみると彼は小児麻痺だったらしく足が不自由で杖を必要としていたとも聞いた。
しかしピアノの演奏家としての腕前はかなりのものがあって誰もが皆賞賛していたようだ。
イギリスで亡くなった時は息子に付き添われてドイツに帰国している。
さて翌1827年はベートーベンがなくなっている。
彼は56歳で亡くなるまで随分と体を痛めていたようだ。
死亡原因は様々取り沙汰されているが、亡くなった後の解剖所見では肝臓を始め体の中の臓器がほとんどボロボロに痛んでいたと。
特に注目したのは彼の髪の毛の鉛の含有量が通常の100倍もあったと言うことで。
この理由も色々と推察されているが、彼は大酒のみだったので安物のワインに含まれた亜鉛が理由だったとか、その他にも様々な治療と称される薬物の服用などが挙げられる。
しかし詳しい事はわかってはいない。
ただし、彼の葬式の時ウィーン市民約20,000人が参列したようだ。
彼は誰からも慕われていた音楽界の大御所だったのだ。
この葬式にはシューベルトも参列したようだ。
そして翌1828年シューベルトもなくなるのだ。
彼も体調不良で伏せっていたが孤独死の形で発見されている。
3人の中では一番若かっただろう。
調べてみてわかったがシューベルトは交響曲も未完成を含めて創作に当たっている。
彼はどちらかと言えば歌曲で有名な作曲家だが、交響曲などを聞くとほとんどベートーベンを彷仏とされるような古典的な作曲手法を用いている。
そのことをベートーベンよりもはるかに古典派に近い作曲方法と判断する人もいるようだ。
古典はとロマン派の分類はあっても実際に聞くとそうでもなさそう
音楽はどのような手法で作曲されるかによって分類される場合がほとんど。
自分の作曲した曲に題名をつけるのはベートーベン以降とされる。
知る限りでは交響曲第3番を英雄と名付けている。
5番が運命、6番は田園といった具合。
作曲方法はメロディーラインや和声は確かに斬新なものが多いが、形式として採用していたのはソナタ形式で、これは最も古典的な楽曲の様式とされている。
実はシューベルトもこの様式をかなり厳格に守っていた節がある。
このような形式を採用することが音楽的に最も整っていて美しいと感じたようだ。
初期のロマン派の作曲家たちは皆メロディーその他に思いを込めるようなやり方をしていたが、基本的に作曲方法は昔からのものを踏襲していたと思われる。
大抵の場合彼らは皆ピアノの名手で、彼らの周りには即興演奏を求めて常にギャラリーがたむろしていた。
ベートーベンを筆頭にしてピアノの即興演奏は著名な作曲家たちは皆類まれなる才能の持ち主だったのだ。
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作曲家同士は思いのほか進行があったのだ
ベートーベンは16歳の時ドイツからウィーンに出てきてモーツアルトにあったとされている。
実際は捏造ともされる逸話だが、モーツァルトはその時周りのものにこういったらしい
この若者に注目したまえ
将来必ず名をあげる音楽家になる
年代的に見るとこの時モーツァルトは31歳位のはずでまともにベッドからは起き上がれない位体調不良だったようで、この逸話は捏造の可能性が高い。
さらにベートーベンはハイドンに師事していたことでも知られるが、はっきりってそれほど多く学んだようではない。
ベートーベンが作曲した楽譜にハイドンの弟子と書くように言われても、何も学んでいないんだからとかたくなに拒んだようだ。
当時の和声法で平行5度、平行8度は響きが良くないとして作曲で使ってはいけないとされていたが、ベートーベンはそういった事はお構いなしに用いていたと聞く。
そのことを指摘されると、誰がそんなことを禁止したんだ?
そう言ってまったく取り合わなかったと言う。
ちなみにベートーベンは晩年になってからあの魔術師ジスト少年の演奏を聞いて絶賛したと言われている。
ピアノの魔術師フランツリストはベートーベンをこよなく愛していた。
彼の胸像を前に演奏会を開くほど心酔していたのだ。
クラッシック音楽の始まりはヨーロッパの狭い領域だった
作曲家同士は思いのほか知り合いが多いし、また親戚関係にある人も多いようだ。
今回調べてみてわかったのはモーツアルトの奥さんコンスタンツェはウェーバーのいとこだったと言うこと。
となればモーツアルトとウェーバーもそれなりに親交があってもよさそうだが。
こちらの奥さんは知っての通り世界3大悪女の1人である。
決して悪人であるとは思わないが、モーツァルトの評価を全く理解できていなかった事はとても残念だったと感じる。
ベートーベンの葬式が国を挙げての大変な行事だったのに対してモーツァルトは身元不明人がしてもらうような葬式しかしてもらえなかったのだ。
それは一緒に暮らしていた奥さんがお金がなくてまともに葬式も出せなかったから。
浮浪者と同じような共同墓地に埋葬されたモーツアルトは、その土地の習慣にならって共同墓地に埋葬場所がなくなるとその墓地の埋められた遺骨は全て掘り返されゴミとしてどこかへ捨てられてしまった。
したがってモーツアルトはお墓がどこにあるのか遺骨がどこにあるのかも不明。
あの黒柳徹子さんがそのことを番組の中で激しく嘆いていたのは記憶に残る。
シューベルトもわずか31歳で亡くなっているので、まともな葬式は考えにくかったと思う。
それとは逆にバッハなどは教会に埋葬記録がしっかりと残っていて、協会の改装工事を行った時にお墓の移転も行って。
その時の遺骨を鑑定して肉付けしてみたところバッハそっくりの人が出来上がったとのことでその頭蓋骨はヨハンセバスチャンバッハ本人とされた。
著名な作曲家といえどもその扱いは千差万別。
出来上がった芸術作品が賞賛されるほどに、彼ら作曲家を始めとする音楽家たちが報われていたようではなかったらしい。