私は昭和28年生まれ。
まだ戦争が終わって8年ほどだったので、戦争の頃の記憶を話す人は周りにたくさんいた。
戦前と戦後では国そのものの仕組みが全く違っていて、特にその中でも天皇の扱いが全く別なものになっていたこと。
戦前の天皇は“現人神”と言って人間とはみなされてはいなかった。
要するに神様の化身である。
しかし戦後はその点ががらりと変わって、人間である旨を宣言してそのまま国民の象徴として振る舞うことに。
テレビで何回も特集番組が組まれるが、実際に昭和天皇の胸の内、どんなことになっていたのか、いつも興味がわくと同時に、戦争が終わった後の彼の人生って一体何なんだろうと、考えることが多い。
目次
戦前行われていた御前会議
御前会議は天皇中心に催される 天皇直属の国家上層部の会議と言える。
重大な決定は、ここで必ず図られて決定されることになる。
しかし調べてみると、いくつか意外とも思える約束事が
- 天皇が発言する事は無い
- 重大な項目になればなるほどはっきりと決定はしない
- 必ず代替えのための案を用意してある
- 会議の内容に天皇が納得すれば裁可となる
- いちど裁可した内容は覆すことができない
太平洋戦争に至る御前会議も何度か開かれたが、前述の内容がほぼ守られることに。
実は太平洋戦争突入の直前の重要な御前会議は9月に行われている。
その時の会議では、あらかじめ昭和天皇の意向が述べられたそうな。
昭和天皇は戦争には反対
それは多くの国民が犠牲になることをよしとしなかったから。
昭和天皇は若い頃に半年ほどの欧米への外遊経験があった。
その外遊旅行で様々な国際情勢を学んだとされている。
特にフランスなどでは第一次世界大戦後の膨大な数の慰霊碑を見るにつけ戦争の悲惨さを肌で実感したようだ。
また、イギリスに赴いたときには時のチャールズ5世国王のもとで立憲君主制の基本となる考え方を学んだ。
当時の皇室としては、ヨーロッパで先進の思想を学ぶ機会があったのは昭和天皇ぐらいだったろう。
明治天皇 大正天皇も外遊した話はほぼ聞こえてこないので。
特に立憲君主制の場合、国家元首は基本的には発言しないのだと自覚したようだ。
日本の御前会議の場合、天皇はあくまでも最後に承認するかしないかの判断で、その時にも決定的な内容にはせず、どちらかとも取れるような曖昧な形にして天皇自身が傷つくことを極力避けたと聞く。
すべてを天皇の命令でやったことにすれば、こと何かあったときには天皇は責任を取らなければいけなくなるから。
もし、天皇が傷ついたりすることがあれば万世一系の日本の最も重要な精神的な柱が失われることに。
現代では、このようなことを議論する話はほぼなくなった。
これは議論する対象ではなく、日本人の精神性がそのような御神輿の上に誰かを担ぐようなことで成立していることを考えると、天皇の存在は必要不可欠と判断されている。
日本の国の制度では天皇は、国家元首の他にも大元帥の位が与えられていて、軍の最高司令官とされる。
したがって陸軍海軍で大きな作戦行動を計画する場合は、必ず天皇の裁可が必要となる。
昭和天皇の場合、様々な情報のアンテナを張っていて、多くの人が死んだり、日本国民が万が一飢えるようなことがあった場合、一旦裁可した決定内容も、後から取り消したい旨の申し出を。
その場合、一度決定した事は覆されなかった。
昭和天皇は中国に陸軍が進駐したときに、いちど御前会議の決定を覆そうとした。
実は、その時に失敗をしてそれ以来トラウマになったと言われることも。
天皇は、絶対権力者のように見えてそれは違う。
立憲君主の場合、行政に関わるのは議会であり内閣であり、国を守るためには軍隊もあった。
運営そのものはそれぞれの担当者が行っていた。
天皇の前に案が出されたときには、もう議論の余地はなく、天皇自らも首を縦に振るしかなかったようだ。
それは、本来の気持ちとは別な方向へ物事が進むことを暗示している。
特に昭和天皇の場合、陸軍の存在が目の上のたんこぶだったように思う。
陸軍は、当然のことながら参謀長を始めとするきちんと統括する機関があったにもかかわらず、若い将校たちはしばしば問題を起こして、暴走する傾向にあった。
特に、歩兵部隊は直接 前線で戦うだけに、どうしても気性の荒い者たちが集まった傾向に。
戦前の日本の国の内閣などを見ても、東條英樹をトップとする陸軍は誰にとっても扱いにくい存在だったようだ。
特に、10月以降はその時の総理大臣近衛文麿は陸軍をコントロールできないことを苦にして、総理大臣を辞任した。
そして、こともあろうに後任に東條英樹を推薦した。
昭和天皇はそのことも御前会議で裁可している。
後から聞くところによると東條ならば、むしろ陸軍を抑えられるのではないかと期待を持っていたようだ。
しかし、その見通しは完全に甘いと言えた。
12月に入ると御前会議においても外交的な手段で戦争回避する事は歌われてはいるものの、戦争の準備は着々と進めることがなされていたのだ。
戦争準備を着々と進めていて、そして、振り上げた拳は落としどころがなく、相手に向かうしかなかった。
戦争に至る流れ
この写真はくつろいでいる様子が伝わってくる。彼の右手に注目してほしい。
タバコを吸ってリラックスしているのだ。
彼は、戦争遂行にあたってどうしても引けない事情があった。
中国戦線の実質的な責任者であったがゆえに、そこでの戦線の内容に非常に大きな責任を感じていた。
70万人の将兵を投入して20万人の死者を出している。
アメリカと盛んに平和的な解決を模索はしていたが、アメリカの要求は無条件に中国から撤退すること。
多くの犠牲を強いられておきながら、手ぶらで引き上げるなんて事は絶対に承服できなかったようだ。
結局のところ12月の御前会議では、戦争やむなしの機運が高まっていったのである。
やはり軍人であるが故に、いつでも作戦行動に出られるように準備がされていた。
そして例の真珠湾攻撃。
あらかじめきちんと準備がなされていて、そしてアメリカの側の思惑もあって、ほとんど無抵抗のアメリカ軍に対して行った攻撃だった。
そこには、アメリカのしたたかな計算があった。
アメリカは日本が戦争をするように仕向けたことが今は知られている。
真珠湾攻撃の半年後にはミッドウェイなどでボロ負けしている。
戦争状態に入ったのでは、もう後戻りはできない。
昭和天皇は様々な働きかけをしていたようだが、ことごとく叶わなかった。
当時のアメリカのルーズベルト大統領は、戦争終結に応じるつもりは全くなかったので。
避けられない戦争。そしておそらく勝てないであろう戦争
その戦争に自ら裁可をして承認をしてしまう。
精神的な苦痛の限界を超えていたと言える。
この時期昭和天皇はおよそ7kgも体重を減らしていたと言われている。
それは自分自身のせいで日本を滅ぼしてしまうのではないかという、あってはならない恐怖だっただろう。
心の中に抱いた恐怖は4年後に現実となってつきつけられる。
敗戦を受け入れるに至る
ここの会議室は皇居内に設けられた防空壕。
御前会議であるので、基本的には天皇は発言しない。
しかし、戦局を打破するための名案はここに集められたメンバーでは決して出せなかった。
方やポツダム宣言を受託しようとするもの、また一方では日本の国土を最終的な戦場としてここで最終決戦を行うと叫ぶもの。
およそ意見の一致を見ることなどなかった。
この会議は 1945年8月9日の夜11時50分ごろから始まったようだ。
すぐに開けて8月10日となった。午前2時ごろ収拾がつかなくなり天皇に慣例を破って意見を求めたのである。
天皇の答えは明確だった。
ポツダム宣言を受託する。
「軍関係者の言っている国土最終決戦で準備はできていると言いながらも、実際に自分の世話をする者たちをして確認させに行かせた。
報告では準備など全くできてはいないばかりか、今までの報告も、最初の作戦行動の予定と結果はあまりにもちぐはぐなものばかりであった。」
「今回の意見も口だけで内容は全く伴っていないと判断する。」
「これ以上の戦闘は無用である。
ここは素直に降伏をしてポツダム宣言を受諾する。
そうすれば日本国民は生き延びることができる。
私はどうなっても良いから、この国は自分たちの先祖から受け継いだ国であるゆえに、未来の子孫に残す責務があると。」
これでこのときの御前会議は終了する。
そして14日に最終的な決定がなされ、例の玉音放送の内容が天皇自らの声によって録音された。
実は文章は、古文体で書かれているのでほとんどの人は理解できなかったのではないか。
現代語訳にしたものがあるのでそれを紹介したい
[中垣現代語訳]
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とに思いを巡らし、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良な全国民に申し述べる。
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、ポツダム宣言を受諾することを通告するよう下命した。そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々の天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いからであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海軍将兵の勇敢な戦いも、多くの公職者の奮励努力も、一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我が国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(注 原子爆弾)を使用して、無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。これ以上戦争を継続するならば、遂には我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いのだろうか。これこそが、私が日本国政府に対しポツダム宣言を受諾するよう命ずるに至った理由なのである。
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、更にはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
考えれば、今後日本国が受ける苦難は並大抵のことではないであろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思う。私は、国としての形を維持することができるならば、善良な全国民の真心を拠所として、常に国民と共に過ごすことができる。もし誰かが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したりあるいは仲間を陥れたりして、互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければなりません。
あなたがた国民は、これら私の考えをよく理解して行動して下さい。
これが玉音放送の全文。
このような内容であることをどのくらいの人たちが理解できたのだろう?
歴史的な遺産と言えるのかもしれない文章である。
自分の命と引き換えに日本を守ろうと決意
この写真は天皇自らがマッカーサー元帥の下に赴いて自身の意見を述べてその後に記念に撮影したもの。
天皇はマッカーサーにこのように述べたとされている。
「自分の命はどうなっても良いから、どうか日本国民を救って欲しい。
決して危害を加えるようなことをしないで欲しい。
そのような必要ができたときには、私が代わりに命を差し出す」
昭和天皇の訪問を受けたマッカーサーは、最初、天皇が命乞いをしに来るのだと思ったようだ。
つまり、「どうか私を殺さないでくれ」
そういうことを言うに違いないと決めてかかっていたのだが、実際は間逆の発言をされた。
マッカーサーは後でこの時、非常に衝撃を受けたと語っている。
天皇を亡き者にするのは日本のこれからを考えたときに絶対に避けねばならないと。
このときの会談でマッカーサーは確信したと言っている。
日本人には天皇が必要だと。
その後の事は、様々な週刊誌その他でいろいろな記事が書かれた。
昭和天皇自らが自分の言葉で心情を語った事はほぼなかったと言える。
彼は310万人にも及ぶ犠牲者たちに対して常に責任を感じていたに違いない。
天皇自身が死んでみたところで何の解決にもならない。
これだけの犠牲者が出たことで、責任論は問う自体ほとんど意味がないのでは。
生き残った者たちがどれだけ再建に向けて努力をするか、亡くなられた人たちにどれだけお弔いの気持ちを捧げることができるのか、できる事は極めて限られる。
戦争が終わった後、天皇が行ってきた事は全てこのときの理念に基づいているだろう。
自らの決断で戦争を終わらせ国を守ろうとした。
戦争が終わってからも償い続けようとした。
これは天皇家が背負った宿命なのかもしれない。
国民を守る(国家を守る)そのことに最後まで努力し続けたと言える。
まとめ


この2枚の写真の間には一体何年の月日があったのだろうか。
日本人の最高権力者としての地位から象徴としての地位に変わったその世代交代の真っ只中にいた人たち。
人間として存在しながらも、その存在は全く別格のものとして扱われたのだ。
しかし、天皇家の人たちに戦争責任を問うてみてどんな色良い結果が。
すでに様々な文献で明らかにされたように、天皇自身は最高責任者の肩書を持ちながらも、基本 御神輿の上に乗せられた神様のようなもの。
“わっしょい”されただけの存在ではないのか。
むしろ、戦争に至った経緯は様々な時代背景によって、日本のみならず他国との関係において、歴史の趨勢(すうせい)として認識していかなければ、犠牲になった者たちは浮かばれない。
人間はどうしてもこのような悲惨な無謀なことを企てて実行してしまう。
そのことに対する認識は常に意識しなければならないし、たくさんの犠牲者が出たことに対しても、それらの人々をないがしろにするようなことにだけはなりたくないのだ。