いつの頃からか広島のことを私は1人称で考えるようになっていたと思う。
子供の頃に広島では第二次世界大戦中8月6日に原爆が落とされて、一瞬で何万人もなくなったと学んできた。
子供の頃はそんなこともあったのかと全く他人事だったように考えていたかも。
しかし高校生、20歳を過ぎた頃から、大勢の人たちが原爆症で今もなお苦しんでいることを目の当たりにする。
そして原爆投下直後の様子などが克明に解明されるにつけ、心の中に言いようのない苦悩が湧き上がってきて今に至っている。
どうしてこんなひどい目にあわされなければならなかったのだろうか。
そして何万人何十万人と亡くなったそれらの人々に対して一体どんな申し開きができると言うのか。
今でもまるで答えの出ない堂々巡り。
目次
8月6日広島原爆投下の日
いつもなら10,000人程度の規模で慰霊祭が執り行われるが、今日はその4分の1程度だったろうか、少ない参加者で行われたと聞いている。
コロナ騒動のせいで、人が集まる事は厳しく制限されている。
いつまでいってもどこまでいっても終わらないつらく苦しい記憶。
原爆の慰霊碑の中でかつて論争にもなった有名な文言がある。
「安らかに眠ってください
過ちは繰り返しませんから」
この言葉には主語がない。
どちらかと言えば被害者の側が発する言葉ではないだろう。
原爆を落としたのは言わずと知れたアメリカ。
しかし、アメリカは原爆投下を過ちとは絶対に思っていない。
そんな中でわざわざこんな言葉が選ばれたのにはそれなりの思い入れがあったようだ。
この言葉の主語は「世界人類」と解釈されている
つまり、もっとわかりやすく言えば「私は」とすれば意味が通じるのでは。
あまりくどくどとは言いたくはないが、自分がと置き換えるのに抵抗のある人はこのような議論に加わる事はほとんど意味がない。
私は原爆投下には被害者も加害者もないと考えている。
亡くなられた犠牲者の方々へのお弔い、
そしてその後の世代に生きている私たちは誰も皆、遺族なのだと考える。
私のスタンスはここにあると言える。
無差別大量殺人
原爆投下の後の惨状を記録した様々な動画や写真が残されていたのだが、GHQの判断でそのほとんどは公開禁止又は廃棄処分の憂き目にあった 。
しかし、これは後世に絶対に残すべきと思った人たちがいたようだ。
こっそりとかくして残った映像があったのだ。
それらの最初の公開が私が中学3年の時、今から半世紀以上も前になるが、戦後25年を記念して公開とテレビで報道された。
それは動画だったが、瓦礫の山の所々に映る頭蓋骨。そして焼死体とおぼしき遺体。
そういったものが映っていたと思う。
当然のことながら、誰が誰だか判別不能だったろう。
そして原爆の爆心地にいた人たちは、そのほとんどが最初の熱線で蒸発したと思われる。
その蒸発したときの人影が橋の欄干に写っていた写真がある。
考察しても意味のないことかもしれないが、原爆は爆発の瞬間は直ちに光り輝くわけではない。
スイッチが入って起爆した瞬間に大量の中性子が降り注ぐ。
まだ光の球になる直前。
原爆の真下にいた人たち数百名はこの中性子の雨の直撃を受けて即死したとも言われている。
このような事実は後世の研究の中から推察された。
大体、原爆を作った最初の目的は、放射能被害なんか眼中になかった。
圧倒的な爆発力。
空中で爆発させて、発生した衝撃波が、地上で2つ合わさってマッハステムと呼ばれる倍増効果が得られる。
注目していたのはこのマッハステム。
このとてつもない破壊力こそが原爆製造の着眼点だった。
日本では被爆された方の様々な苦しみが語られているが、原爆製造に関わった人たちもさまざまに原爆症で苦しんでいたのだ。
ただし、ほとんど報道されていないので、みんな知らないだけ。
アメリカでは最初の原子力潜水艦、ノーチラス号の製造の時に一体どれほどの被爆者が出ただろうか。
あの潜水艦は今で言うところの高速増殖炉を使っているのでプルトニウムなどの被曝も起こっていたのだ。
原爆投下を考えたときに加害者も被害者も議論することにあまり意味がないと私が考えているのはその辺にも理由がある。
未来へ語り継がねばならないもの
男の子が赤ちゃんを背負った写真。
これはかなり有名な写真で、何年か前にローマ教皇聖下ベネディクト14世だったか 世界中に原爆の悲惨さを理解してもらうために配信した画像。
但し書きが付いていて、背中におぶっている子供は実は既になくなっていて、この男の子の弟らしい。
直立不動で立っているのは火葬をしてもらうためにその順番を待っているときの様子。
“最後まできちんとしなきゃ”と思っていたんだろうな。
こういった映像から伝わってくる痛みを私たちは後世に語り継ぐ必要が。
実際に経験したことのない者たちは、好き勝手に議論をし、好き勝手な行動をいまだに続ける。
その気になれば、人類を根絶やしにすることだってできる。
そうなったときに、誰がどれだけの悲しみや苦しみを受けるのか。
私たちは本当の意味で学んでいるのかどうか甚だ疑問。
この時期になると、どうしても忘れられない事柄なので、情報として発信し続ける。