いよいよ時代は1573年。
本能寺の変まであと10年ないわけで。
将軍家に召し抱えられた明智光秀だが、織田信長にも仕える裏事情があった。
何よりも比叡山の焼き討ちで近江を信長より与えられ、坂本城の完成もまじか。
将軍家専属の家臣と言うわけにもいかなかった。
さて、時の将軍足利義昭は織田信長とは反りが合わず、内々で信長の周りの大名たちに盛んに上洛を呼びかけていた。
狙いは信長攻略。
上洛の時は織田信長に多大な貢献をしてもらってはいたが、ここへきて比叡山の焼き討ちを始めとする信長の暴挙には我慢がならなかったのだ。
相容れない2つの勢力を何とかして結びつけようとする光秀。
今日はそんな光秀が、ついに将軍家と袂を分たねばならなくなる厳しい事情が語られる。
目次
正親町天皇に謁見


今でもそうだが、天皇のような人と一般大衆が直接あいまみえる事はほぼないと言える。
戦国のこの辺の時代だと、天皇はやはり雲の上の存在なので、謁見するにはそれなりの約束事を守らねばならない。
光秀は、三條西実澄のはからいで御所へ参じることができたのだが、会えるかどうかは確約とまではいかなかった。
とにかく粗相のないように十分な準備をする必要が。
番組の中では一旦御所の中には入ったものの、直接天皇のお顔を拝見することにはならず、廊下を隔てた距離を保ちながら言葉を掛け合う設定になっていた。
しかし、これだけでも大変な快挙と言える。
十分な配慮をした結果、1つの和歌を題材にしてその批評をする形で意見交換をすることができたのだ。
そして天皇の一言。
明智十兵衛の名を胸に留めおくぞよ
光秀にしてみれば涙ぐんでしまうくらい嬉しかったこととして描かれている。
織田信長が心酔している正親町天皇を自分も知ることができて言葉もかけていただいた。
将軍義昭の胸の内


摂津晴門を幕府から追放した後、義昭はどうやら武家の頭領としての自覚が生まれたようで。
特に自分の亡くなった兄、義輝が剣の達人だったことを受けて、自分自身も少しでも近づこうと側近のものを捕まえては剣術の稽古に余念がない。
たまたま将軍の所へやってきた光秀を捕まえて相手をしろと。
やんわりとお断りをする光秀。
将軍の心構えは評価はするが、所詮はにわか仕込みで稽古をしたところで、どれだけの上達が見込めるのか。
明智光秀は戦場で白刃をかいくぐってきた歴戦の勇者。
命のやり取りの場を幾たびも経験したものにしてみれば、お遊びの稽古などほとんど意味をなさない行動に映ったかもしれない。
ドラマの描き方も、そんな実力差をまざまざと見せつけるような容赦のない表現方法がとられていた。
激しく打ち込んでくる義昭の太刀筋を紙一重で事もなげに交わし続ける光秀。
どんなに真剣に打ち込んで行っても、全く通じることがない。
と同時に、命のやりとりを何度も行ってきたものだけが身にまとわせる殺気。
ドラマの描き方は2人がまともに木刀を交わさないことを用いて、心がすれ違っている様子を表現していたかも。
武田信玄の上洛
将軍義昭は信長に隠れて朝倉義景や武田信玄などに盛んに上洛を求めていた。
また、これらの行動は信長を追い詰めようとするもの。
とにかく比叡山の焼き討ちの余波は半端でなかったのだ。
よくやったと評価するものはごくわずか。
大抵の人は救いようのない暴挙として捉えていた。
そんな中、義昭は少しずつ信長と距離をおきたいと考えるようになっていたのだ。
既に失脚したが、摂津晴門が様々な企てを計画して信長包囲網を作りつつあったが、その事は義昭自身もそのまま引き継いだ。
足利義昭と織田信長 ついに決裂
明智光秀は自分自身が坂本城を築城したことによって信長へ馳せ参じることも多くなっていたが、信長から聞かされた言葉。
将軍家はあまり役にはたたぬ。
少し厳しく意見しなければならない
そんなやりとりをして、自分自身は天皇家と密接に連絡を取り合って、将軍家をないがしろにするような立場をとっていた。
完成間近の坂本城に夫婦揃って詣でる光秀。
この頃は1572年から73年にかけて。
歴史的な事実を一言言っておけば、光秀の妻煕子は1575年に病でなくなる。
坂本城で過ごせる時間はごくわずか。
琵琶湖のほとりの坂本城。
そしてわずかな時間をおいて対岸に安土城が完成する。
琵琶湖を挟んで信長と光秀が主要な場所をきっちり押さえることに。
さて足利義昭は1573年、ついに対信長で挙兵する。
何とか思いとどまるように説得する光秀だが既に時既に遅し。
この時すでに足利幕府の終焉はすぐそこに迫っていた。
実は、織田家の家臣の中で豊臣秀吉だけが将軍家を見限るべきだときっちりと認識を確かなものにしていた。
後の豊臣秀吉はこの頃から織田信長の家臣団の中でも光秀と勢力を争う実力を備えつつあった。
彼が所有している情報網は他の武将たちをしのぐものがあったような描かれ方で物語は続く。
明智光秀は1573年、足利将軍家を去ることになる。
そして織田信長はこの後浅井朝倉攻めを敢行する。
本当はこの時期、綱渡りの運営を強いられていた信長だが、運命的な助けもあっただろう。
この時期、織田信長を討ち果たせるだけの勢力があるとすれば武田信玄、上杉謙信が挙げられるが、残念ながらこの2人は信長と本格的に戦う直前に病死するのだ。
ちなみに武田信玄はこのときの上洛では三方原の戦いで徳川家康を一蹴している。
この時、家康は命からがら逃げ帰ったと伝わる。
この戦いで屈辱的な負け方を記した徳川家康。
このときの恥を一生忘れまいとこの無様で惨めな自分の姿を絵師に描かせた。
ちなみに逃げ帰る時に馬上で、脱糞するほど怯えていたことも記録として残る。
織田信長はこの時3000ほどの兵力を応援として差し向けていた。
その中には前田利家の弟もいたと聞いている。
すべて討ち死に。
さてこの時からすでに本能寺の変まではカウントダウンが始まっていると思われる。
光秀はこの後最愛の妻をなくし、ひたすら信長に仕えることになるのだが、その武将としてのマインドは少しずつほころびを生じてくることになるのでは。
また、この時代確か大病をしていたはずだよね。
光秀は半年近く戦線を離脱していた時期もあったはず。
そういったこともこれからの麒麟がくるでは描かれるのだろうか。