フランス滞在中の篤太夫一行。
時代はまさに転換期。
パリ万博に参加中の徳川幕府一行は裏向きの目的を果たせないまま時間を過ごすしかなかった。
フランス政府に依頼した600万フランの借款は立消えに。
この辺の事情は歴史を詳しく勉強しなければなかなか伝わってこないが、実はフランス政府と徳川幕府の間で内々に裏取引がなされていた。
その内緒の取引がイギリスその他にばれてしまうのだ。
当然のことながら、抜け駆けはやめろと横槍が入る。
そのせいでの借款消滅だった。
しかし、その頃日本では徳川慶喜が驚くべき決断を下している。
大政奉還。
もうそのことによってしか厳しい現実を打破することは不可能と判断。
朝廷に政事の全権をお返しするとの歴史的決断。
およそ500年続いた武士による統治は終わりを告げることに。
歴史的な事実で記憶にも新しいところだが、一筋縄ではいかない厳しい事情も見え隠れする。
目次
フランス一行の様々なやりとり
フランス政府からの借款が立ち消えになったことで、幕府一行の面目は丸つぶれ。
何とかして手立てを講じなければならないが、実はこの借款がこの先歴史に出てくる事は無い。
つまりお金は借りられなかった。
ただし日本を出るときにはきちんと留学をして学ぶようにとの指示があったが故に、どうしても資金を調達する必要が。
篤太夫達の機転によって、必要な資金を無事集めることができたようだ。
この時日本では、すでに徳川幕府は体をなしていなかった。
何をどのように手を下したところで、政治はもう思い通りには動かなかったのだ。
徳川慶喜の意見としては、広く議論を起こしてどのような日本に方向付けるべきかを皆で模索するべきと。
しかし、反対意見は多く、目先の怒りによって短絡的な行動をするものも多かったのだ。
慶喜の側近原市之進も暗殺されている。
徳川慶喜は頼りとする側近をことごとく暗殺されて、ほぼ身動き取れないような状態。
そんなことをまるで知る由もなかったフランス一行。
日本では
血洗村では尾高平九郎が渋沢家に養子として入ることに。
調べてみたところが、彼は養子になったことで幕臣としてサムライとしての人生が始まる。
歴史的な事実なので、ここではっきりさせておくが、大政奉還直後の日本では不本意にもいくつかの内乱が起きる。
彼は1868年、幕府の一員として戦いに参加。
敗退した結果、自決するしかなかった。
享年22歳。
今日の物語の中では、篤太夫の妹ていと淡い恋心が描かれていたが、歴史的にははっきりと記録が残っているわけではない。
物語に登場している登場人物たちは皆それぞれに歴史に名を残す人たち。
渋沢家の中ん家を養子をとって継いだのが彼女。
婿養子を取ったわけだが、その彼は県議会議員など様々な要職を務めて明治の発展に寄与したとされている。
慶喜の決断 朝廷と薩摩の暗躍
徳川慶喜が大政奉還を決断したことによってにわかに朝廷の周りは騒がしくなる。
実は、この時朝廷には政治を運営するだけの力はなかったのだ。
歴史的にもはっきりしたことなので、誰もが知っている通りこの時大役していたのは薩摩藩。
はっきり名前を言えば後の西郷隆盛らが暗躍していた。
朝廷の側では岩倉具視が主な決定権を担っていたと言える。
彼らははっきり言って、邪な考えのもとに戦を起こそうとしていた。
徳川慶喜が戦うことなく穏便に政権委譲を考えていたのに対して、西郷隆盛はなんとしても戦って勝利を得ることにこだわっていたと言える。
それは歴史が示す通り。
日本ではこの後避けられない戦があちこちで起こることになる。
時代背景としては新選組などが活躍していた頃。
それらは皆歴史の荒波に揉まれることになるのだ。
まとめ
実は今日の回から篤太夫一行は留学先の意見を取り入れて洋装をすることになる。
ちょんまげを落として洋服を着る。
これで一気に明治維新の感じが出てきたね。
さて、この時篤太夫は留学に関わる金銭の一切合切を任されていた。
既にその能力は遺憾なく発揮されていて、
大政奉還がなされた後も2年間ヨーロッパにとどまり続けたのだ。
帰国しなければならなかった理由は、水戸藩の跡取りとして徳川昭武が継ぐしかなかったから。
明治政府が出発するかしないかの頃に彼らは日本へ帰ってくるのだが、その時は信じられないほどの苦労をしなければならなかったらしい。
とにかく旧幕府の人間なのだ。
明治政府の敵として認定されていた歴史がある。
さてフランスでは大政奉還の事実はいまひとつ伝わってはいなかったようだ。
どうやら来週も外国でのエピソードが語られるらしい。