くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

青天を衝け 大政奉還で変わる世の中

 

オリンピック関係で3週間の休みの後再開された青天を衝け

時代はいよいよ1867年から1868年にかけて。

日本では一大政変となる明治維新に至る1連の動向が。

実は、物語の主人公渋沢篤太夫はこの時、民部公子とともにフランスパリに滞在中だった。

15代将軍徳川慶喜の命を受けて外国できちんと勉学に励むように指示を受けていたのだ。

しかし、徳川幕府が大政奉還によって政を朝廷に返還してしまったが故に、パリ在住の一行はそのままパリに残れるかどうかも怪しい状況に。

特に、1868年以降は明治新政府が発足

今まで徳川の支配だった日本国はその様相をがらりと変える。

渋沢篤太夫は様々な歴史のうねりの中で果たすべき役割は何なのかを模索し、ついに日本に帰らざるをえなくなる。

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今日からは洋装にイメチェン

目次

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大政奉還

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政を朝廷にお返しする

 この時徳川慶喜はすぐに将軍職を引き受けたわけではない。

彼なりの駆け引きがあったと思われる。

1867年、彼は徳川宗家を引き継ぎながら15代将軍には即位しない時期があった。

それは自ら行動を起こすのではなく、周りからどうしてもの応援を取り付けなければ、先々の政治がうまくいかないことをよく知っていた。

しかしこういった方策も、功を奏する事はなかった。 

この時、朝廷は即位したばかりの明治天皇の周りに海千山千の貴族たちがたむろしていて、その貴族の周りには長州や薩摩などが、ハイエナのように群がって倒幕計画を企てていた。

徳川慶喜が気の毒だなと思うのは、そういった裏で暗躍する連中のことを知り抜いていた上で、将軍職を引き受けねばならなかったこと。

はじめからうまくいかないと分かっている立場に進んで即位しようなど誰だって望むことじゃなかろう。

しかし時代は、彼の即位までは変えようがなく流れていったのだ。 

徳川慶喜の苦悩

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どんなに頭が切れても政治を動かすためにはまだまだ不足

もともとは勇猛果敢で頭脳明晰な徳川慶喜

とにかく先々に何が起こるのかよくわかっていたゆえに、選択肢が残されていない状況ではがんばる気持ちも萎えてしまっただろう。

慶喜は鳥羽伏見の戦いで、海臨丸で江戸に逃げ帰る失態を犯している。

慶喜がそのような行動を取らざるを得なかったのには大きな理由が。

それは朝廷が錦の御旗を薩摩長州に与えてしまったこと。

そのせいで徳川幕府は賊軍となってしまった。 

徳川慶喜は何よりも朝廷を重んじる水戸藩の出身。

彼にとって何にも変えがたい後ろ盾は朝廷の天子様以外にはなかったのだが、それを真っ向から否定するような事態が起こってしまった。

もともと口数の少ないとされた徳川慶喜だが晩年になってからこのときの大阪から江戸へ逃げ帰ったことを一世一代の不覚だったと述懐していたようだ。

このときの敗戦が徳川幕府(すでにも政治的な力は失っていたのだが)の終焉を意味していた。

 徳川慶喜が江戸に戻ってからも上野の戦いなど幕府が負ける戦が続いた。

あまりに遠いパリ

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民部公子と篤太夫 パリで散歩をしている

この当時パリと東京の間では手紙のやりとりをするだけでも数ヶ月を要した 。

リアルタイムでそれぞれの状況が把握できないのは、今考えてみれば致命的なリスクを抱えたまま生きなければならなかったと言えるだろう。

しかし、日本からのパリへの連絡は意外と2〜3ヶ月で届いたようだ。

物語の中でも語られていたが、あのまどろっこしい言葉遣いで、手紙をもらってどれだけその内容が正しいと信じられただろうか。

しかし、篤太夫は状況を敏感に把握する

パリ一行は日本の代表のはずだったが、ここへきてただの旅行者になってしまう可能性が。

考えようによっては自分たちの身分が一切剥奪されてしまうのに等しい。

日本に帰ろうなどと言う気持ちも起こらなかっただろうし、どうやって過ごせばいいのかすらもよくわからなかったに違いない。

日本でどれだけ重大な政変が起こったか、ただ心配するだけの日々が続いただろう。

渋沢篤太夫の手腕

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少ない持ち金を投資で運用して滞在費を捻出

 篤太夫にとって、滞在費用を捻出するのは至上命令だったと言える。

日本から順調にお金をいつまで送ってもらえるのか。

送金が途絶える可能性も当然あったと考えただろう。

しかし、ここで彼の持ち味が遺憾なく発揮される。

フランスで知り合った人たちから投資することを学んでいた。

自分の持ち金を預けることで、その配当金を得ることで滞在費を無事捻出したとされる。

いわゆる株式投資である。

渋沢栄一は日本の資本主義の祖とされるが、このときのフランス留学で学んだことが彼の人生を大きく変えた。

とにかく明治になってからは500以上の会社の創設に関わっている。

しかも、彼のポリシーは社会福祉事業にも広く及んでいる。

今全国展開している社会福祉協議会は彼の発案が元になっているのだ。

今の日本の発展に正しく貢献した人としては彼がナンバーワンと言って良いのかも。

明治政府

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明治維新後も戦いがおさまる事はなかった

明治維新は、流血しなかった革命として有名との講話を聞いたことが。 

今なら、それは嘘だと断言できる。

確かに日本の教育レベルはこの当時世界的に高かった事は事実だが、歴史の転換点では驚くほど大勢の血が流された。

おそらく新選組の生き残り土方歳三の最後も(函館で彼は死去する)描かれるに違いない。

幕府は賊軍となってしまったが、その幕府への忠誠を貫こうとする大勢の人たちがいたずらに命を落としたのが明治維新だと私は解釈している。

尊王攘夷で大勢の人が死に、さらに明治維新後にたくさんの人が死んだ。

物語は来週この辺の切ない事情が詳しく語られるようだ。