くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

おかえりモネから考察 音楽はなんの役にも立たない⁉️

 

毎日欠かさず見ている朝ドラ。

絶賛放送中の「おかえりモネ」は今までとはちょっと違った仕立てになっているので、いろんな意味で興味深い作品。

ただ、音楽好きな人ならなんとなく反応するだろうけど、この物語はどうやら音楽も物語を語る上で重要なアイテムになっているようだ。

ずいぶん前にこんなシーンがあった。

震災での辛い体験が下ですっかり引っ込み思案になったモネは父親からもう一度サキソホンを始めてみないかの問いかけに、やらない‼️ときっぱり。

その時に音楽は何の役にも立たない 発言があった。

物語ではもう終盤に差し掛かってきたときに再び音楽の話題が昇ってきているので、そのことも踏まえてもう一度考えてみることにする。

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主人公モネは子供の頃からアルトサックスを習っていた

目次

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音楽なんか何の役にも立たない‼️

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6月4日放送のシーン

津波の体験で心に傷を負った主人公が父親からの問いかけに答えたセリフ。

気晴らしにもう一度サクソフォンを吹いてみないかと。

その時の答えがこれ。

主人公はこの時、ギリギリまで追い詰められていて、自分の気持ちを何かでまぎらわそうとはならなかった。

ただし、これはセリフの上のことで売り言葉に買い言葉の意味もあるだろう。

心のそこからこんな風に考えていたとは思い難い。

自分が苦しんでいる気持ちにしっかりと向き合わないことを要求されてそれを拒否するための言葉だと。

物語はこの時に中学校での吹奏楽部での様子が楽しく描かれていたよね。

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ジャズバンド風の演奏形態 見ている人だけでなく演奏している方がまず楽しい

やりとりから考えて、主人公は自分が前へ進むためのアイテムとして音楽は採用しなかったってことだよね。

音楽のみならず芸術はもともと何の役にも立たない

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ウォルターペーターとショーペンハウアー

音楽は様々ある芸術の中でも1番分かりやすいと言われている。

19世紀の哲学者ウォルターペーターが言った有名な言葉がある。

すべての芸術は音楽の状態に憧れる。

もともとは哲学者ショーペンハウアーの言葉とされている。

西洋哲学では、こういった心の考察を深掘りすることが盛んに行われていたりするのだ。

また芸術はすなわち感情移入だってことも昔からよく言われてきて。

さらには他の芸術分野との対比もよく行われている。

文学

美術

音楽

さらにはここから発展して演劇や映画も分類されてしかるべき。

たくさんある芸術の中でなぜ音楽が他の芸術から抜きん出て憧れると言わしめるのだろう。

音楽は音によって心を表現している。

そして、表現する側と受け取る側で、感動を共有するシステム。

伝えたいと思う表現する側は、受け取る側に対して精魂込めて表現しようとする。

音楽の潔癖なところは、いったん表現されてしまえば後には何も残らないこと。

その時の時間が経過すれば後に残るのは感情だけなのだ。

他の芸術で見るならば、文学にしても美術にしても、証拠となるものが後々残っていくことになる。

そして、時と場合によっては作品と呼ばれるものは後から如何様にも手を加えることができるではないだろうか。

実は、音楽ではそれはありえないのだ。

一度時間の流れの中で表現されてしまえば、それでおしまい。

後は手の加えようもなく、心の中に何が残ったか残らないかの議論だけだろう。

もし、芸術に美しさとか潔さを評価するなら、音楽に勝るものはないと私のような素人でも直感的にわかる。

なぜ音楽⁉️

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音楽は理解でなく感じるもの

哲学的な考察を始めた段階で、それは音楽の値打ちを下げる行為だと私は考えている。

音楽は頭で理解すべきものではない。

感じてなんぼの世界。

何も感じなければ何の値打ちもないってことになる。

実は、何かを感じることに上手い下手はあまり関係ないことも。

それは理屈として納得できる部分も多いのでは。

表現されたものを受け取る側がどんな気持ちの状態でいるのかがとても大切なことで。

有名な指揮者のフルトヴェングラーの言葉に、感動はどこに存在するのかとの問いかけに答えたもの。

演奏する側聞く側のどちらでもなく、その中間にある。

平たく言えば、表現する方と聞く方で感動は共有されるってことだよね。

ただし、最近はこの音楽のあり方もインターネットの普及で昔のようなこととは状況が違ってきた。

聞く側は自分の聞きたいものをランダムに自由に選び取ることができる。

それはリアルタイムで演奏されたものではないが、音源として常に存在しているのだ。

その中から自分がこれはと思うものを選び取って鑑賞すればいいだけのこと。

昔のようなリアルタイムの演奏会とはまるで訳が違うので、このような議論すら現代ではややピントがずれつつあるかもしれない。

音楽と私

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中学高校の吹奏楽部経験

本格的に音楽に向かい始めたのは中学校に入ってからだと記憶。

童謡の聞き取りで全く答えられなかった私は、良いものを聞きたいとの一心で、教育テレビのクラシックの音楽番組に聴き入る習慣ができた。

それはどんなものなのかを自分で納得できる形で理解したかったから。

その出発点があるから今に続いていると言える。

聞くだけではなく実際に表現する側で経験することがとても重要なこともその時に学んだ。

今でも様々な音楽を聴く習慣があるが、私は基本的にクラシックファンである。

あらゆるジャンルのものに興味はあるが、どうしても最初に触れたクラシックの範疇で物事を分かろうとするきらいが。

この年になって、いろんなことを考えたり経験もしたが、多分改まることもないのではと。

結論として言える事は、聞く人の気持ちの状態で、音楽はいかようにも力になってくれる

日本は戦争を経験し、かつてないほど痛め付けられた歴史を持っている。

戦後の復興期を考えたときに、人々を励まし勇気づけたのは音楽ではなかっただろうか。

ありふれた事実だが、あの時歯を食いしばって頑張っていた人たちは、音楽が必要か不要かなんてことも考えてはいなかっただろう。

ただ、あの厳しい歴史の果てに今現在があると思うと、感慨無量だと感じるばかり。