渋沢栄一の本来の活躍が描かれる時期になってきた。
物語は明治7年くらいから明治10年くらいにかけてが設定となる。
明治維新はなったものの、徳川から明治への様々なシステムの移行は私が知っているほどには穏やかなものではなかったようだ。
まさに歴史の荒波。
その荒波の中、官も民も皆 翻弄されて大勢の者たちが苦しんだと描かれていた。
特に物語の中で注目を引いたのは駿府に蟄居している徳川慶喜。
彼は穏やかな隠居生活をして長生きしたとの印象だが、実際のところはとても枕を高くして寝れてはいなかったのだ。
自分の寝床には鉄砲や刀など常に準備をしておいて、熟睡などできなかったと奥方の話。
物語はどんどん進んで、
明治維新の立役者西郷隆盛と大久保利通が非業の死を遂げる。
そんな中で、渋沢栄一達の活躍が描かれる。
目次
第一国立銀行最大のピンチ
本来無利子無担保で貸し付けていた金額を利子をつけて回収しようとしたのは大蔵省。
それは渋沢栄一のやり方に不満を持った大蔵省が当てつけにお灸をすえようとしたことに起因する。
貸し付けたお金が担保を要求されるとなれば、小野組に多額の金額を貸し付けた第一国立銀行は、連鎖倒産の憂き目に。
これらのことを画策し、主導していたのは三菱財閥の岩崎弥太郎と大隈重信。
この時、大蔵省はどちらかと言えば仕事中心で物事を進めようとしていたが岩崎弥太郎は明らかに自分の利益追求に凝り固まっていた。
明治の経済人の中でも傑出した英雄と言えるが、彼は調べると50歳で亡くなっている。
胃がんだったと推定される。
早すぎる死とは彼のことを指すのでは。
物語の中では、裏で手を回して自分の利益追求をするような描かれ方をしているが、その営業姿勢はどこまでもお客さんを大切にする奉仕の精神。
海運関係で大成功を納め、特に西南戦争等での軍事物資の運搬で大儲けしたと聞く。
それは、明治政府の意向を受けた結果だと言えばそれまでだが、彼の営業力の最たるものだろう。
渋沢栄一はこれらの海千山千のやり手の商人と渡り合う必要があった。
渋沢の仕事に対する姿勢で何とかピンチを切り抜けることができた銀行だが、それでも荒波を完全に乗り越えられたわけではない。
蚕卵紙など外国商人の罠にはまって、苦しいやりくりも迫られたことが事細かに語られていた。
大蔵省
大蔵省は第一国立銀行に対して監督責任がある。
銀行業務に関してはじめての監査が行われた。
正直な商売をしていれば、決してうしろぐらいことにはならないが、ちょうど小野組倒産で、多額の不良債権を抱えたので、黒字になるはずもなく。
それでも栄一たちの努力によって被害は最小限度に食い止められたと語られていたね。
徳川慶喜の苦悩
私が思うに徳川慶喜は大政奉還の後、命を長らえることができて大正時代に至るまで悠々自適の隠居生活を送ったと思っていたが。
どうやらそんなにのうのうとした生活ができていたわけではなさそう。
平たく言えば、枕を高くして寝ることなど叶わなかったのだ。
徳川慶喜の側近は、ことごとく暗殺されてきた過去がある。
それは彼の父親徳川斉昭の側近の時代から伝わってきた歴史的事実。
慶喜は身近な者たちの死がいずれは自分に訪れるかもしれないと常に身構えていた可能性がある。
周りが時代の変わり目で必死に苦しんでいる最中、のうのうと悠々自適で暮らせるほど彼は自信家ではなかったはず。
さらには、この当時でも驚くほどの実力者との呼び声が高かった。
周りの空気等は手に取るようにわかったに違いない。
そのことを考えると生きながらえることがどれほどの苦痛なのか。
それは本人にしかわからないことかもしれない。
歴史の荒波に飲み込まれしもの
個人的に大久保利通には決して良い印象は持っていなかったのだが、しかし彼のことを詳しく調べてみると、仕事には超がつくほど実直。
世の中のために必要だと感じたなら、私財をなげうって公共事業として行っている。
彼は48歳で暗殺されたが、その時家にあったお金はわずか140円ほどだったと言う。
しかし、借金があってその金額が8000円。
それは自ら財産をなげうって起こした公共事業の借入金だった。
大久保利通の人となりを知っていた債権者たちはその債権を全て放棄したと伝わっている。
つまり人望が厚かった。
そして西郷隆盛は私が個人的に思うのは義の人。
自分の利益のみを追求するような世の中のシステムに嫌気がさして、不満士族たちのお神輿に乗せられてしまった。
その結果が西南戦争だろう。
彼は不満分子たちとともに行動し、最後は自ら切腹して果てた。
最後のセリフは
もうこの辺でよかろう
彼が靖国神社にお祀りされていないと聞くと、忸怩たる思いがする。
少なくとも日本国の転換期に大変な功績のあった人と認識。
世の中の荒波の中に揉まれた渋沢栄一は、この頃から子供の頃から慣れ親しんだ論語について再び読み返しをしているような設定になっていた。
彼の表した著書「論語と算盤」は私の手元にも現代語訳されたものが一冊。
私が渋沢栄一に興味を抱くようになったのは今から20年近く前になるだろうか。
その頃一読して、さらに数年前に再び読み返すことになったと思う。
個人的には明治維新や大政奉還の頃の暴露本だと私はとても興味深く拝見したのだが。
歴史的に見ても、まだまだ彼について語らねばならぬことがたくさんあると感じる。