くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

私が感じた皇室の印象 昭和天皇の思い出

 

先ごろは秋篠宮家の長女真子さんの結婚のことでずいぶんとニュースなど賑わいが。

正直なところ、ここまで加熱するのかと思うくらいネットの書き込みは上限を超えて多かったように思う。

そしてその内容はほとんど非難するもの一色に埋め尽くされた。

私は個人的には、それほどの思い入れはなかったので、そんなこともあるだろうくらいにしか思わなかったが。

ちょうどその頃、再放送で1984年度の皇室の活動についての特集番組を見ることに。

今まで知っていたこと、知らなかったことなど改めて確認。

そして、私の中での天皇陛下は昭和天皇であることも認識

昭和天皇は歴史の中でも全く異なる時代を生き抜いた稀有な存在として世界史にも残る。

思い出とともに振り返ってみたい。

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当時のご一家家族写真 手前の小さな男の子が秋篠宮殿下

目次

お名前.com

昭和天皇

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古い写真 親戚の家には床の間にこの写真が飾られていた

昭和天皇は明治34年、大正天皇の長男としてこの世に生を受ける。

明治と言えばその時の明治天皇は明君と誉が高かった。

あの幕末明治維新を経験した本人だからだ。

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大正天皇 病弱だったため治世の最後の5年間は昭和天皇に業務を代わってもらった

私の中では、昭和天皇はちょっととぼけたおじいちゃんの印象が強い。

あっそう😒

この言葉と共に蘇る昭和天皇。

気さくな人柄なんだなと子供心に感じていたが、今思い返してもあまり自分の心を話す人ではなかったように感じる。

ちょっと不思議なたどたどしい日本語がなんとなく、大丈夫かな?と思わせるような様子にも見えた。

この昭和天皇が、歴史に残る大転換期を自ら体験していたなんて、子供の頃には想像もつかなかったと考える。

戦争責任

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GHQ マッカーサーとツーショットで

戦前は現人神で、誰彼謁見することも叶わなかっただろう。

彼のもとで様々な御前会議等が開かれて、日本は太平洋戦争で様々な経験をすることになる。

戦争の最高責任者としての昭和天皇の地位は誰も疑う事はないだろう。

その事は昭和天皇もよく理解していたと考える。

しかし、様々な状況証拠や証言などから御前会議は基本的には天皇の発言はなかったと。

つまり、お神輿の上に乗せられた言いなりのお人形さんだったってことだ。

今でも忘れた頃に戦争責任などの議論が湧き上がることも。

さて、ここからは私の独断と偏見に基づく個人的な見解

昭和天皇は自らの戦争責任を認めていて、そのために様々な行動をなしてきたと。

有名なのはマッカーサーと会談した時のこの写真。

マッカーサーは、事前に昭和天皇が来ることを知らされたときに、命乞いにくるんだと考えたようだ。

しかし、事実は全く逆。

昭和天皇は生き残った日本人に決して危害を加えることがないように懇願したらしい。

もし戦争責任を問われるのなら、すべては私が引き受けるからどうか国民にその責が及ばないように配慮してほしいと。

つまり自分が身代わりで死んでしまってもいいから、国民を守ってくれと頼んでいる。

この会見がもとで昭和天皇の戦争責任を問うことは不問にされたらしい。

日本の再建にはどうしても天皇の存在が必要で、利用価値ありありだと考えられたようだ。

私が思うに、この時どんな結果が自分の身に降りかかろうと昭和天皇は命を投げ出す覚悟ができていたと思う。

結果はおそらく想像に反していただろう助命ってことになったよね。

その時から昭和天皇は生涯生きて、戦争責任を果たそうと考えたのでは。

その後は、周りから求められるがままに生きてきたような。

もちろん自由時間その他も充分あっただろうが、しかし、あちこちの行脚もすべて請われるがまま。

自分の感情などは押し殺して、言うなりをきめこんでいたと思う。

戦争が終わった後も40年以上の長きにわたって天皇に即位し続けた。

生きているうちは全て自分の責任で罪を償うと心に決めていたからだと感じる。

その後の今の上皇様、平成天皇は体調不良その他を理由に自分の地位を委譲している。

それは、昭和天皇とは明らかに違うスタンスだからだと解釈するが。

東京オリンピック(1964年)

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開会式で開会宣言を

終戦からちょうど19年目の昭和39年10月にオリンピックが開催された。

私自身も11歳で記憶にくっきり鮮やかに蘇る。

天皇陛下の開会式宣言が、ちょっと突っかかっているようにも感じて、人ごとながらハラハラしたのを覚えている。

考えてみれば1940年、太平洋戦争の始まる年に、本来ならば東京オリンピックが開かれるはずだった。

それはその時の様々な軍事情勢によって中止になってしまった過去がある。

おそらく、昭和天皇の胸の中にはその時の記憶もよみがえっていたに違いない。

一旦はなくなったオリンピックを再び開催することができた思いは感動もひとしおだった可能性が。

思い出から感じ取ること

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しっかりとした記録が残る 生物学者としても有名だった

テレビ番組の中では、ごく普通に宮中祭祀の様子が描かれていた。

1984年度放送の番組だが、今見直してみても、驚くほど複雑な約束事に縛られていて、皇室の人たちにはプライバシーと呼べるものはないんじゃなかろうかとさえ思う。

食事はもちろん、毎日かかりつけ医の診断を受けて、身の回りすべてのことについて管理されている。

今の秋篠宮家などでは絶対に行われていないだろうと(立場が違うからだけではないだろう)思う。

いくら、天皇とは言えあそこまで管理されてしまったのでは、私の目から見たら自由な時間等とは程遠いなと感じるが。

とにかく、こなさなければならない雑多な仕事(失礼な表現で申し訳ない)は毎日山のように存在する。

皇室は日本古来の伝統で行われてきた様々な行事を毎日滞りなく継続している。

伝統を決して省略することなく日々行うことこそ、皇室の精神的な背景なんだろうなと想像する。

また、皇室を運営する予算は国費で賄われる。

もちろん個人的にお金を使うこともあるとは思うが、昭和天皇の場合は財布を持ったことなどなかっただろうと思う。

彼は終戦の時から自分は飾り人形になることを自ら言い聞かせて、そのことを決して他人に委ねようとはしなかった。

最近になって様々な情報が明らかになりつつあるが、私の中での天皇への評価は昔から変わらない気がする。

ふと気がついてみたら自分の心の中にある象徴としての敬うべき対象がいることを、改めて確認できている。

くどいようだが、象徴として敬うべき対象とはもちろん天皇のことだが、それはすなわち自分自身を敬うことだと改めて力説しておきたい。