先週の物語で糟糠の妻千代を失った渋沢栄一。
今週は彼が亡き妻の面影を抱きつつ、どんなふうに仕事をしたのかが詳しく語られることになる。
明治15年千代が亡くなった翌年に、栄一は再婚をする。
すでに数週間前から把握はしていたが、かつての豪商伊藤家の出。
伊藤兼子と再婚を。
その時のエピソードが詳しく語られていたが、渋沢栄一が周りから紹介されて受け入れたような物語だったね。
栄一は幼なじみの千代のことが忘れられない。
2人で二人三脚でここまで頑張ってきたのだ。
特に、明治初期の対外的な活動には千代の存在は欠かせないものだった。
最愛の妻であり、間違いなく戦友だったと言える。
妻を失った渋沢栄一がどれだけ憔悴しているかは、周りが放っておけないと感じるほど。
そして白羽の矢が立ったのが芸者見習いとして描かれている伊藤兼子。
すでに朝ドラスカーレットでもおなじみだが、あの大島優子が演じている。
スカーレットの役柄が記憶に新しいところだが、全く違うタイプの女性を演じているところが、彼女の女優としての才能を強く感じるところ。
今週はそういったことを中心に描かれるが、かつて好敵手とされた明治の偉人たちが次々と亡くなることも描かれた。
目次
驚くほど事務的な再婚
渋沢栄一にとって、自分が心を許せる女性は最初の妻千代だけだったのかもしれない。
もちろん伝わっている事実を総合すると、極めて女癖の悪い輩で、あちこちに子供も50人以上こしらえたような。
当時、このようなお悔やみ欄が存在していた。
伊藤兼子は芸者見習いとは言え、お妾さんは望むところではなかったらしい。
平岡円四郎の妻やすの紹介として描かれていたが、渋沢栄一の後添えとして結婚を勧められていたね。
最初に、どちらがオーケーしたのかはわからないが、途中経過は端折った状態で物語は描かれていた。
渋沢家の応接室で2人が一対一で話をする。
このやりとりが驚くほど事務的で、こんなんで結婚しちゃえるの?と思うくらい無味乾燥な描き方。
多分、2人の心の通いあいとかじゃなくて、身分とか世間体が優先されたんだろうと勝手に推察。
三菱対共同運輸
岩崎弥太郎は三菱商船で日本の海運業の独裁を狙っていた。
それを阻止するための共同運輸だったが、ここで行われたのはお互いの激しいダンピング。
それは1割引2割引の運賃の話からやがては会社の存続も危うくなるほどの値引き合戦。
最終的に三菱の残り時間は1年間。
共同運輸の残り時間は100日。
ここまで疲弊するに至ってしまった。
調べてみると、間違いなくお互いの会社は競争していた。
しかし、物語で描かれていたような渋沢対岩崎の全面戦争でもなかったような気がする。
渋沢栄一と岩崎弥太郎は相反する勢力だったが、会社が共倒れになる前に2人が手を携えることになった。
実はこの2人が共同でやった仕事も数多く存在しているとの記述もあちこちで見かける。
ただし、岩崎弥太郎は50歳そこそこであっさりと亡くなってしまう。
五代友厚の忠言
三菱と共同運輸を和解させたのが五代友厚だったように描かれていた。
お互いの代表が顔を突き合わせて本音で語り合うことを促していた。
この時、五代はすでに目が見えなくなっていて、はっきり言ってなくなる直前の仕事だったように思う。
彼は50歳の手前で亡くなっているので、ちょうどこの時期に相当する。
今日の描き方だと、渋沢栄一は岩崎弥太郎への対抗心をむき出しにしていて、食うか食われるか、どちらかが生き絶えるまで戦い続けるとの描き方。
渋沢栄一の他の業績を考えると、そこまで意固地な性格とも思えないが、そこは物語なので、対比のためにはこういった描き方をしたのかも。
関西方面で活躍していた五代友厚は当時の経済人の中でも渋沢栄一や岩崎弥太郎と並び称せられるほどの存在。
かつての薩摩藩士の生き残りで、渋沢栄一がパリ留学中に彼もヨーロッパを訪問していた。
2人とも、欧米の先進的な経済運営を熟知していたと言える。
明治の英雄たちの死
幕末以前に生まれて明治維新を経験していた人たちで長生きできた人はどちらかと言えば少数派だろう。
大抵の人は50歳前後で亡くなっているのだ。
様々な原因で亡くなっているが、岩崎弥太郎の胃癌が切なく感じる。
彼は、共同運輸との戦いの最中になくなったと物語では語られていたが実際は存命中に渋沢栄一と和解していたはず。
物語的にはそれほど大きな影響はないと思うが。
岩倉具視も五代友厚もこの前後で亡くなっている。
逆に長生きした例で言えば渋沢栄一が昭和の初めまで90歳以上の長命だった。
徳川慶喜も70歳過ぎまで生きたと記憶。
時代は、自由民権運動の走りがこの辺から。
わかりやすい形をとっていたので民衆はお金持ちの資産家を敵とみなしていた。
このような運動は今でもそうだが敵を作ることが1番強く訴えることができる。
要するに批判をすれば良いのだ。
しかし志のあるものはそういった批判に屈する事はなかっただろう。
兼子の思い 栄一の真心
今日の物語の最後の方で兼子が離縁を申し入れる場面が。
自分では役に立てないと素直に気持ちを吐露する兼子に栄一は土下座をして謝る。
俺を見捨てないで助けてくれ。
その願いは切実だった。
このことがあってから渋沢栄一は彼の孫が生まれた後にも、2人の男の子を設けている。
つまりおじさんの方が年下なのだ。
この時代はこういうことがよくあったような。
さて、東京養育院は渋沢栄一が個人で運営することとなった。
それは亡き千代の思い出が被る
この時以降、兼子は鹿鳴館でその存在を大きく知られる存在になる。
渋沢栄一の妻としてその役割を遺憾なく発揮できていた。
ただし、下世話なことだが渋沢栄一の女癖の悪さは相変わらずだったようだが。