物語は明治24年位から明治30年過ぎまでが描かれる。
幕末明治維新と時代を駆け抜けてきた渋沢栄一は今や日本の経済界の重鎮として泣く子も黙る存在。
渋沢栄一なしでは日本の経済は1日たりとも機能できないような大変な忙しさの中で日々を過ごしていた。
渋沢家は大家族で知られるが、今日のエピソードは渋沢家次男、渋沢篤二について詳しく描かれた。
渋沢栄一の長男は早くに亡くなっているので、実質的には篤二が嫡男として扱われていた。
さて、これだけ家族が多いと、人それぞれでいろんなことが起こってくる。
渋沢栄一本人も一般的な業績は大変なものだが、ただ1つ女癖が悪いと言うとんでもない弱点が。
実は、次男の篤二も似たような運命をたどることになる。
様々な論説がネットで確認できたが、総合してみるとやはりプレッシャーを感じていたんだろうな。
偉大な父親を持って、その跡継ぎとなれば、周りの見る目も当然のことながらヒイキ目だろうし、その事は本人にとっては苦痛だったに違いない。
今日は渋沢家のそういった事情とその当時の世情を合わせた物語作りになっていた。
目次
東京開市300年祭
明治24年頃になると、どうやら国内の殖産興業の発展も軌道に乗りつつあった。
幕末の時点では、産業らしいものは何もなかったが、そこからたゆまぬ努力を繰り返した結果、世界に通用する産業が整ってきたと言える。
郵便、電気、運輸、銀行など、文明国には必要不可欠なアイテムが全て渋沢栄一達の努力で成し遂げられた形に。
様々な業績が華々しく評価される中、徳川15代将軍慶喜の評価は実は低いままだった。
徳川慶喜の業績は、周りの人が詳しく知ろうとしないこともあって正しくは伝わっていないのかもしれない。
しかし、可能な限り人々の負担を少なく、それでいて毅然とした態度で行政を行おうとした手腕は間違いなく評価されて良いはず。
当時のおもだった幕末の偉人に比べて、彼が長生きしたことを考えると、決してヤケを起こさずルールに則った活動ができてきたことを感じ取ることができる。
もし誰かに著しく嫌われて槍玉に挙げられるようなことがあれば、明治政府の賊軍の大将なんだから、命がながらえたとは思い難い。
その裏の事情をよく知る渋沢たちは、
その業績を正しく後世に伝えようと徳川慶喜からの聞き取りを始めることになる。
仕事で忙殺される栄一
この頃の渋沢栄一の忙しさは、想像を絶するものがあったと推察。
デスクワークもさることながら、彼は対外的なことも全てこなしていたのだ。
それは経済活動だけではなく、慈善事業にも及んでいた。
青天を衝けではしく描かれてはいないが、当時は鹿鳴館 華やかなりし頃。
ここで、養育院など福祉事業を行うための資金集めのバザーなどがよく行われていた。
渋沢栄一は率先して寄付をして事業を助けていた。
ノーベル平和賞に2度ほどノミネートされているが、この福祉事業での活躍が評価されたと言って間違いないはず。
外国への援助も彼は惜しまなかった。
彼の中心的な眼目は、経済の発展にあったがそれは弱者を切り捨てるることではなく、救うことだとの確信が。
他の者たちが言うように、弱者を切り捨てていけばその刃は必ず自分に振り返ってくるとその厳しい事実を渋沢は知り抜いていたと言える。
徳川慶喜との信頼関係
明治以降徳川慶喜は針のムシロに座らされ続けたと言える。
悠々自適の暮らしをしているように見えながら、実態は必死に耐えていたことがなんとなく想像できる。
彼の記述は今ではネットでは色々と検索可能だが、彼は寝るときに刀、銃など必ず傍に置いていたとされる。
自分が恨みを買う存在であることをよく知っていたから。
さらに彼の妻、徳川美賀子は明治27年、乳がんが発見されて、東京で手術を受け療養していたがその年のうちに亡くなってしまうのだ。


さて、明治27年は日清戦争が起こった年でもある。
明治維新からの年代を考えればわずか30年弱であの大国に勝てた事は快挙と言えるのかもしれない。
ただし、日清戦争の言葉から我々が想像するのはあの大国清に勝てたと言うくらいのことだろうが、あの広大な中国の大陸を想像するのは間違い。
実際は、朝鮮と台湾をめぐる争いだった。
戦争も1年弱で終わっているし、戦闘も限定的な地域だけで行われたので勝てた戦だと言える。
そのようなことも物語の中では割愛されていた。
日清戦争の頃
日清戦争にかかった費用がおよそ2億円とのこと。
ちなみにこのときの日本の国家予算は8000万円。
国家予算の2倍を超える戦費なんて普通ありえないことだが、実はこの後の世界の歴史を見ると国家予算の何十倍にも及ぶ賠償金の話も出てきたりするので、このくらいの事は知っておくべきことだったかもしれない。
伊藤博文は渋沢栄一の言葉に対して戦費は賠償金で賄えそうだと語っていたね。
確かにあの時朝鮮と台湾と遼東半島の1部を領土として得ている。
勝ち戦とはそうしたものだが、これは欧米列強と同じような考え方で、渋沢栄一の胸の内としては必ずしもヨシとはできなかっただろう。
政治や戦争は主に指導者が起こすもので、一般大衆は基本的には関係ないのだ。
そのことをしっかり理解できている人が今も昔も驚くほど少ないのかも。
渋沢篤二


今日の主役は彼渋沢篤二。
渋沢家の跡取りなので、その責任は間違いなくとんでもなく大きいが、しかし渋沢栄一の後継者との呼び名は周りにちやほやするものも集まってきたりで、本人はどんな気持ちを感じただろう。
痩せた印象があるのと、表情からはいかにも神経質そうな印象を受ける。
彼は、偉大な父親の2世として、そのことを受け止めきれずにいたのだ。
そして、父親の悪い癖だけはなぜかそのまま継承していた。
ちなみに、この篤二の後見人になっていたのは姉歌子夫婦。
つまり、お姉ちゃんがかなり口うるさい感じだったようだ。
しかしながら、周りから言われれば言われるほど切なく感じるもの。
気持ちが休まるようなことをしてあげられなかったのは彼にとってとても不幸なことだったと言える。
今日1日ではとても終わらないエピソードで、来週も描かれることになるね。
渋沢栄一は昭和6年まで存命だったが、息子篤二は昭和7年に亡くなっている。
偉大な父親の期待に答えられなかった思いを抱きつつ、悩んだ末の人生だったのかもしれない。