くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

青天を衝け 栄一の思い描いた未来は私たち

 

最終回を迎えた青天を衝け

41回ですべての放送が終わったのだが、これだけの歴史物語をこの回数でこなすにはやっぱり厳しかったんだろうなとつくづく思う。

物語的には大政奉還から明治維新に至る過程が誰もが興味を引く部分だが、渋沢栄一の業績のほぼ全てが明治以降に発揮されていることを思えば、この物語の後半のエピソードを展開するスピードは駆け足から全力疾走に近かったかも。

明治から大正にかけて、日本は世界の国々と対等に付き合うべく様々な方策を用いていたが、もともと欧米列強は東洋人を自分たちの仲間とはみなしていなかったようだ。

特にアメリカでの反日活動や、その他諸外国とも綱渡りの付き合いが続いていた。

渋沢栄一は最後まで平和であることがどれだけ重要なことかを説いて回った。

幼い頃からの

「自分だけではなく周りの人みんなも嬉しいのが1番」との教えは彼の生涯にわたってのポリシーだったかもしれない。

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物語の最後に登場若かりし日の渋沢栄一

目次

老いてもなお仕事に向かう

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病床に伏しても周りが放っておかなかった😱

渋沢栄一が精魂傾けて励んでいた経済活動も、実は諸外国からは必ずしも素直に受け入れられたわけではなかったようだ。

栄一自身は義理と真心こそが、経済活動の基本だと信じて疑わなかった。

今で言うところの商モラルをしっかり確立した人だと言える。

要するに、アコギなことをやってはいけないわけだ。

必ず誰かのために皆が喜べることこそが基本理念である姿勢は崩さなかった。

アメリカでは大勢の日本人移民が日本人排斥によって苦境に立たされていた。

理由が傍若無人なもの。

安い賃金で働く日本人がアメリカ人の仕事を奪っている。

経済活動の労働力を見たときに1番望ましい姿だと思えるが、そのことに対してひがみやっかみがあちこちから湧き上がっていたのだ。

アメリカを豊かにするために精魂込めて働くとの思いは残念ながら受け入れられる話ではなかった。

欧米諸国は、基本的に“楽してうわまえをかすめ取ろう”と言うぼったくり精神で出来上がっていると思わざるを得ない。

植民地政策や帝国主義政策などその最たるもの。

そしてそのことを当然至極に真似しようとした日本には避難が集中することになる。

『自分は良くても他人はダメ』の通らない理屈がこの当時無理矢理通されたかもしれない。

どこまでも平和的な解決を貫こうとする渋沢栄一。

しかし時代の流れはそういった真心を簡単には受け入れてはくれなかったようだ。

グローバル化の弊害

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栄一の気持ちとは裏腹に諸外国から徹底的に嫌われる

ストレートに自分の心情を訴えることが日本の国としてはいまひとつ受け入れられない切ない事情があった。

すでにこの頃の日本は欧米諸国と同じ植民地政策であちこちに色目を使いつつあった。

この当時、第一次世界大戦が終わったばかりで軍縮等の議論も盛んだったが、各国が相手国の腹の探り合いでなかなか話が進展しないこともあったようだ。

既に高齢で体力的にも無理がきかなくなっていた栄一だが、老いぼれてもなお自分ができるのなら人の役に立たなければならないとの決死の覚悟で仕事に立ち向かっていった

この頃渋沢栄一は首相原敬を始め、様々な要人と毎日会談していた様子。

皆どうしても栄一の意見を求めていた。

すでにこの頃は80歳を超える頃と思われる。

長生きしていた大隈重信も病床に臥した後、83歳でこの世を去った。

国の発展のために、世界中の国々が様々な交易を行って同じような価値観で商売することをグローバル化と言うんだそうな。

しかし、現在でもこれらの考え方は当たり前のようでいてなかなかうまく機能しているとは言えない。

どうしても自分の利益を優先すれば、どこかの不利益が。

誰も皆 損したくないんだから、やっぱりこのやり方には多少なりともリスクがあって、なおかつ自分の不利益に目をつぶれるだけの度量のあるものだけしか参加できないのかもしれないね。

慈善活動こそ渋沢栄一の真骨頂

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困っている人のために病を押して寄付を募る

渋沢栄一の最も大きな功績は慈善活動だと言えるだろう。

私の記憶に間違いなければ現在の社会福祉協議会は全国各地に活動を展開しているが、その本を作ったのは渋沢栄一である。

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全社協役員室に置かれている渋沢栄一の胸像

渋沢栄一は事前活動で何かを頼まれればどんな時でも首を横には降らなかったそうな。

自分で役に立てるのならお手伝いさせていただくの精神で必ずなにがしかの力添えを行ったようだ。

大正12年の関東大震災の時も渋沢栄一は身銭を切って避難所を設けた。

さらには世界中の経済界の知り合いに応援を呼びかけた。

そのおかげで様々な支援物資が届いたと言われている。

彼がもし生きていて、太平洋戦争が始まるときには一体どんな活動をしたんだろうと一瞬思ってみたりもする。

必ず彼なりの意見を言ったに違いないのだ。

アメリカと戦うなんて、無謀極まりないのは周知の事実。

渋沢栄一が亡き後、日本は坂道を転がるかのように戦争の泥沼の中にずっぷりと埋まっていった。

1931年11月11日

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渋沢栄一の葬列 およそ40,000人が見送ったとされる

渋沢栄一の功績は数えればキリがないが、私が興味を抱くのはノーベル平和賞の候補に2度ノミネートされたこと。

これは経済活動では決して成し得ないだろう。

慈善活動を行うに当たって思いやりと博愛の精神が彼の根底にあった事は言うまでもない。

彼の葬式の時は昭和天皇や、皇后からの勅使が届いていたと聞いている。

皇室にも、その存在の大きさは間違いなく伝わっていた。

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新聞の一面にも載った。 谷中の墓地にある栄一の墓

ネットでは葬式のときの様子も詳しく調べられるが、彼のような偉大な人間が明治以降、世の中に出てこないのは多少なりとも残念だと感じざるを得ない。

「青天を衝け」は渋沢栄一を語るに十分な重厚さを持ったドラマだったと思う。

できることならあともう5回、もう10回の放送回数が欲しかった。

そうすれば、もっとゆったりとしたドラマになったのかもしれない。