数が少ないけれどどうしても見ておかなければいけないという映画に出会うことがある。
Plan75
この映画がまさにそれ。
ネットで予告編を初めて見たときに、これは素通りできないと直感。
封切り後すぐ、作品を見させてもらった。
調べてみると後映画監督は是枝監督の弟子みたいな存在で、早川千絵。
長編映画は今回が初挑戦とのこと。
カンヌ映画祭で新人映画監督賞を受賞している。
ざっくりと見さしてもらったが、映画はどちらかと言えばエキセントリックなテーマで描かれているのに、描き方そのものは驚くほど叙情的。
これほどセリフが多いわけではなく、登場する俳優たちも死に物狂いの名演技というわけでもない。
しかし、よく吟味されたストーリーの展開はその都度交わされるセリフと演技で、物語の世界観がぐいぐいと迫ってくる。
このブログを書くにあたって、あちこちのサイトでの監督のインタビューとか論評など参考にさせてもらった。
監督本人は尊厳死の有無について論ずるつもりはないと断言。
この姿勢が気にいった。
明日死ぬと決まった人間でもない限り、生き死にについて論じる資格などないと考えるのは私の率直な意見。
しかし、世の中の風潮として尊厳死に対してこのようなアプローチがあってしかるべきとも考える。
久しぶりに見ごたえのある映画で、思わず実につまされる部分も多数。
若干のネタバレが含まれるかもしれないが、可能な限り後からこの作品を鑑賞する人のための参考になればと思う。
目次
監督早川千絵
調べてみると、ニューヨーク美術大学に映画監督を目指す人たちのためのコースがあるらしい。
彼女は画家の夫がいて子供が2人いるんだけど、子供を産んでからこのコースに学んだような。
目指したのは、プロにならなくても年にイッポンぐらい映画が取れればいいなと思ったようだ。
感じるのは極めてアクティブなこと。
行動しないで悶々とするよりは、とりあえず行動してみてその後のトラブルに対応するほうがはるかに楽だと考えているらしい。
監督業を勉強する時も、先生に失敗したらお金が無駄になるうんぬんで問い合わせをしたところ、“とりあえずどんどん失敗しましょう”と言われて心が楽になったそうな。
現代人は周りをキョロキョロ見回して、どうすれば一番リスクが少なく最大限の利益を求められるか常に腐心している。
要するに、残念ながらさもしいってこと。
その点で、彼女の潔さを感じる。
彼女の性格が与える今回の作品の作風は驚くほどサバサバしているようにも見えた。
特に重いテーマを扱っているにもかかわらず、彼女はおもだった生々しいシーンは全て避けて描いてきたような。
映画の中には、孤独死や、突然死。
そして子育てに関わる世代の苦労。
若者たちの満たされない心などがいたるところに網羅されていた。
しかし、そのことを映画の中でくどくど説明したりはしていない。
物語の中で所々ぽつりぽつりと俳優たちのセリフや、やりとりなどが描かれる。
そこから物語の中で何が起こっているかがつぶさに判断できる。
倍賞千恵子と磯村勇人
基本的にはこの2人が主人公と言っていい。
倍賞千恵子は、決して力を込めた演技をしていないけど、
だからこそ心に秘めた「年齢を重ねてしまったことへの虚しさややるせなさ」が絶妙に漂っていた気がする。
お金を持たない老人がどんな最期を迎えるかが克明に描かれていた。
磯村勇斗が演じる役所の職員はPlan75に関わったが故にストレスを溜め始める。
自分のやっていることが果たして世の中のために役立つことなのかどうかが、仕事に関われば関わるほどわからなくなる。
自分の親戚とも言うべき人が、このプランに申し込んできたときに、他に選ぶべき道は無いのかと真剣に悩み考えていた。
この2人の、やや暗い感じのする演技がこの物語の全てだったように感じる。
フィリピンからの女優さん(モデル)も重要な役柄で登場していた。
映画の中で母国語を話していたので何語かわからなかったけれど、フィリピン人と言うことでタガログ語を話していたと思う。
彼女は、心臓病の幼い女の子を抱えたお母さんの役柄。
お金のために苦労しなければならない外国人労働者の実態も映画の中で描かれる。
生きること死ぬことと、尊厳死
日本は高齢化社会が限界を超えて進んだとの設定。
Plan75は、満75歳を迎えた時に生きるか死ぬかを自ら選ぶことができる制度。
これは行政主導で行われた。
ここからは私の独断で言わせていただくが、行政が人の生き死にに直接関わってくることなど恐れ多いことだろう。
何人たりとも自分自身の生き死にを自ら決めることができない。
もし、食べられなくて飢え死にしてしまう人が出るっていうなら、みんな雁首揃えて飢え死ににすればいいではないか。
誰かが生き残るために誰かが犠牲になる理論は決定的に誤り。
犠牲になる人も不本意だろうが、仮に生き残れたとしても、後味の悪いものになるはず。
年寄りが増えてしまったから高齢化社会なんていうのはそこに至るまでに一体どんな形があったのか胸に手を当ててよく考えなければならない。
結論として尊厳死の議論は認めるが、それを率先して選んだり、支援したりと言う事はありえないことだと個人的に思う。
もちろん極限状態においてはあり得るかもしれない。
例えば絶対に助からない病気とか、怪我をして脳死寸前の状態とか。
その場合、生きるべきか死ぬべきかを選ばねばならないとしたら本人の意思が尊重されるのはやむを得ないことと思う。
行政が関わることの限界
行政は、現場で与えられた事柄において対応する以外に何もする事はできないはず。
この映画が描いていたプランは、要するに年寄りが多すぎるので間引きましょうと言うこと。
この考え方って歴史を振り返ってみると、ナチスドイツのユダヤ人迫害とか、アメリカの黒人迫害とかそういったことにも通じる理論じゃないかなと個人的に感じた。
行政は住民たちのご機嫌取りをするのではなく、今与えられた様々なアイテムを駆使して今いる人たちがいかにして平等に穏やかに暮らせるか、そしてどのような我慢をしてもらうのかを考えるべき。
底辺で暮らす老人たちは、これ以上の節約やそれに類したことに対応できないのではと思われるけど。
東京ではたまに見かける貧困者への炊き出しの様子も物語で描かれていたよね。
まとめ
映画を見ていて、実は冒頭で描かれたとある施設でのショットガンを持ったシーンがいまだに謎に思う。
若者が、尊厳死を行う施設でどうやらショットガンを持ち込んで自殺をしてしまう。
自殺をする前にどんなことが起こったのか。
散乱した部屋の様子から、何か重大事件が起こったような。
そして増えすぎた高齢者を養うためにいつも犠牲になるのは若者というナレーション。
まさにその通りだよね。
私など年金生活者なので、私の毎月(正確には2ヶ月に1度)いただく年金は若い世代が収めてくれたもの。
もちろん私はこの身分になるまではせっせと給料天引きで年金を収め続けた。
もらい始めたのはほんのここ2〜3年のこと。
この制度は、はっきり言えばネズミ講のようなもの。
お金をかき集めてばらまく。
よほど上手にやらなければ、破綻するのもなんとなく。
確かにそんなことを考えれば、この映画が提起した様々な映像は私たちの社会や未来を絶妙に暗示しているのかも。