歴史を考えるときに真っ先に思い浮かぶのは結果。
しかし今日のドラマを見るにつけ、その考えは変えざるを得ないと思い知らされる。
結果としての歴史は語り継がれる通りだろうが、歴史は導き出された結果ではなく結果に至る過程こそが、歴史なのだと。
記憶にある武田と徳川の戦いが長篠の戦いと認識していて、三方原の戦いの後軍勢を再構築した徳川家康軍が武田勝頼軍を撃ち破ったと単純に認識。
物語で描かれた様々な出来事は、そんな甘い認識を一蹴してしまうほどのギリギリの選択の繰り返し。
三方原の戦いの後、徳川軍はひたすら負け戦を重ねていた。
軍勢は疲弊し、ボロボロな状態で離反も相次いでいたと伝わる。
そんな中起こったのが長篠の戦いだったが、描かれた内容では徳川軍が圧倒的不利な状況に立たされていた。
その不利を跳ね返すだけの裏付けが今日描かれることに。
中心的な役割を果たすキャラクターが
鳥居強右衛門
歴史の教科書では、ここまで詳しく紹介しているものはほとんどないはずだが、歴史をよく知る者なら、決して外せないキャラクターになっているはず。
さらには、徳川家康は自分の妻子を粛清する極限の選択がこの先に控えている。
そこには、織田信長とのやりとりが欠かせないエピソードとして関わってくるのだが。
ここの解釈が、今日新たに書き加えられたような気がする。
目次
瀬名対千代
今日のストーリー展開から行くと2人の話し合いは物語にははっきり言って必要がないものと思われた。
今日の展開で大切なのは武田の軍勢に囲まれた長篠城をめぐる攻防になるので、瀬名と千代が徳川と武田のお家の事情を話し合ったところで、あまり影響がある内容にはなかったと思う。
しかし、物語全体を考えれば、武田はこの後徳川と織田連合軍に撃破される運命にある。
その後、瀬名や長男信康には過酷な運命が待ち構えるので、その布石だと思わないでもない。
織田信長から瀬名や信康は武田に通じていたとの疑いがかけられる
そして、後始末は家康本人が考えろ!と。
その結果、家康は苦渋の決断をすることになる。
歴史に残っている記述では信康は暴力が激しく、主君としてふさわしくなく、瀬名(築山殿)は武田と通じていると疑いをかけられている。
最近の研究では、これらはどうやら事実無根。
「どうする家康」では、史実は踏襲しながらもそれぞれの解釈は独自の広がりを持たせていた。
瀕死の長篠城
三方原の戦いの後、徳川家康は自分の領土を守るのが精一杯。
特に奥三河の長篠は武田の軍勢に囲まれてギリギリな状態。
兵糧は尽き、疲弊した兵たちは城を守るどころの騒ぎではなかった。
この地域は、武田から三河を守るためには最前線に当たるところだが、敵方の武田勝頼は用意周到なやり方で長篠城を囲んでいた。
このままでは長篠城を守ることはできない。
なににもまして援軍が必要でどうしても城を抜け出して連絡を取り合う必要が。
実は、歴史の教科書では、ここまで詳しいやりとりなどほとんど習わなかったと記憶。
教科書で習うのは固有名詞“武田勝頼”とか“徳川信康”とか。
名前がどんな人物かなのかまでは伝わってこない。
歴史ドラマの面白さはこのあたりでドラマとして十分に面白さを追求する内容に描かれる。
鳥居強右衛門
エピソードの中心は何といっても彼だろう。
長篠城を抜け出して、岡崎まで往復したのだ。
そして、長篠の惨状をしっかり伝えた後に、再び長篠城に舞戻る。
そこで捕まってしまう。
実はこれ物語では、武田勝頼の罠として描かれていた。
つまり、わざと逃して徳川を誘い出すための策略。
鳥居強右衛門は長篠城に“助けが来ないと叫べば命を助ける上で召し抱える”と凋落された。
最初は、脅しに屈して助けは来ないと叫ぶが、その後、助けは来るから持ち堪えろと絶叫する。
その結果、逆さ磔で処刑されるのだ
強右衛門の命がけの絶叫によって長篠城は持ち堪えることになる。
武田勝頼も恐れ言ったはず。
魔王 織田信長
信長と家康の丁々発止のやりとりは全く落としどころを見いだすことができない。
家康にとって、信長は主君ではない。
あくまでも同盟関係にある武将。
しかし、今日の物語では、信長が強権を発動して全国を従わせようと画策する様子が描かれていた。
家康はそのことに真っ向から反対。
この頃の信長は比叡山の焼き討ちも終わっており、全国にその恐ろしさが轟渡っていたと思う。
武田信玄が織田信長に向かって進軍しようと決意したのは、信長の傍若無人さが招いた結果とも言える。
武田信玄を上回る策略で、徳川織田連合軍と立ち向かう武田勝頼。
一触即発の事態にまでなっていた。
徳川家康の家族
亀姫は、自分自身が政治の道具に利用されていることを知らなかったようだ
企てたのは、織田信長。
信長の策略はとどまるところを知らないが、この時16歳の亀姫は覚悟を決めて、長篠の奥平氏に嫁ごうとする。
彼女は、この後奥平氏に嫁いで5人の男の子女の子1人を設ける。
歴史では65歳まで長生きするとあった。
徳川家康の亡き後、2代将軍徳川秀忠の時代まで存命に。
彼女をめぐる切ないエピソードも調べてみると明らかにはなるが、今日の物語はこの辺までで終了。
歴史は、その時生きた人たちが何を感じ何を考えどう行動したかが全て。
大抵の場合歴史的結果は大きく改ざんされている可能性も。
そのことを踏まえて歴史をしっかり考える良い機会になると思う。