今週のお題「自慢の一着」
今私が所有している装束の中で1番値の張るのがこれだと思う。
それは柴灯護摩などで使われる衣装
山伏装束
値段が高い事はもちろんなのだが、実は使うときには全くの作業服としての扱いになるのだ。
もうすっかり歳になったので、今更袖を通すことも叶わなくなってきているが、かつては何度か身に付けたことが。
神聖な行事に参加できたのでむしろそのことが誇りと言えるかも。
目次
装束は練習しなければ上手く着られない
これは3年前の京都のホテルで撮影したもの。
朝8時からのお護摩の行事に合わせるために、集合は6時。
したがって、起床時間は2時とか3時とか。
普通に和装なんだけれど、動きやすいような工夫があちこちにされている。
気をつけなければいけないのは寒さ対策。
真冬の京都2月11日前後に行われるのでとにかく寒い。(最初だけなんだけどね)
護摩壇に点火するまでに1時間以上様々なセレモニーがあるので、その間じっと動かずに待たねばならない。
この時間が拷問みたいなもの、とにかく歯の根が合わないくらい寒くなる。
点火すれば一気に炎が上がってあっという間に耐えられないほどの温度になるのだが。
護摩壇が2つあるけれども、あの中間はとんでもない気温になる。
本当の高温のサウナを想像してもらえればいい。
あの中では5分以上は滞在できないだろうな。
すぐそばに閼伽(アカ)と呼ばれる水が用意されているのでそれで顔など容赦なく冷やしながら作業をする。
火の粉も容赦なく降ってくる。
当然やけどもするのだが。
私も何箇所か火傷をしているが、私の装束も含めて勲章だと考えている。
熱さは感じるが、火傷を負っている事は行事が終わってホテルに帰って風呂に入るまで気がつかない場合がほとんど。
肩とか首筋とかヒリヒリする感じがあって火傷をしていることに気がつくのだ。
用事のあるときは朝3時起き
この装束は着るときに少しコツがある。
体の外側の部分。つまり手足とかひざ当てとかそういった周辺からやっつけてくるのだ。
もし膝当てとか足袋とかを 後回しにすると場合によっては後から非常にやりにくくなる。
お坊さんのように普段着慣れている人たちは1人で15分程度で着てしまうと聞いた。
私のようにせいぜい年に一回程度しか身に付けないものにとっては、一つ一つが手探りの作業になるので、ホテルは大抵2人部屋なので、お互いの着付けの具合を確認しあいながら身につけることになる。
身に付けるものがいっぱいあるので1つずつ確認しながら行う作業だが、出来上がったときには見栄えだけでなく心の中までがしっかりと山伏の行者に変身するのだ。
一般的にはあまり知られていないが山伏の行者たちは自身火葬と言って自分自身が世の中の人たちの罪穢れを背負って自ら火の中に飛び込んでその罪を焼き尽くそうと心に決める。
大きくアピールされてはいないがキリスト教の自己犠牲の精神によく似ている。
私も参加した時は身を粉にして頑張って作業した。
最初は寒い点火した後は灼熱
この2つの護摩壇の中には護摩木と呼ばれるいろんな人たちの願いを書いた木切れが詰められている。
この行事全体では1本100円の護摩木を3,000万本ほど燃やし切ることに。
行事を行うとなにがしかの利益が出ると聞いたが、それらは全て慈善事業に使われる。
誰かが潤う事は100%ありえない。
私なども北海道から手弁当で参加していたのだ。
交通費だけでそれなりの出費があったと記憶。
とにかく炎が燃え上がってからは本当に髪の毛が焼けるほどの熱さの中で作業をする。
護摩壇から少し離れた方がより熱く感じると思った。
なるべく近づいた方が熱の放射の直撃を避けられるのでまだ少ししのぎやすいかも。
先達からとにかく注意されるのは、周りに大勢の参拝者が居られて、その人たちから常に注目されているので、くれぐれも粗相のないようにとの指導を受けていた。
とにかくてきぱき動かなければならない。
またお願い事をしたためてある護摩木は可能な限り丁寧に恭しく扱うこと。
今思い出しても想像を絶する修行だったなと。
懐かしい思い出
ちなみにこちらの装束だが、クリーニングに出すと5000円以上はかかると思った。
実際に結界の中で作業する時は全くの作業着でしかないので、終わった後はドロドロに汚れる。
したがって何年目かだったか私は洗濯機で自分で後始末をするようにした。
洗濯機が使えるのはまだ何とかなるのだが、大変なのは地下足袋。
これも洗ってきれいにしなければならないが、信じられないほどドロドロに汚れる。
3年も使えば元の色など何色だったかすらわからなくなる。
と同時に、縮む傾向にあるので何年か経ったら買い換える必要が。
しかし、今思い出してもこの山伏装束を身にまとうと自分でいて自分以上のものに変身できるのだ。
この感動は経験しなければ分からないし、なかなか人に伝えることにもならない。
しかし伝統行事であることの権威をこれほど強く感じられる事は他には見当たらない。
自分の年齢体力を考えると、もうちょっと厳しいなと思う気持ちが勝ってしまうので、わたし的にはもうリタイヤだなと考えるのだが。
もう一度袖を通したい装束には違いない。