月1度、ボランティアの勉強会に参加することにしている。
1時間半ほどの時間で、「傾聴」に関わるいろいろなことを、その時その時のテキストに応じて勉強する。
勉強会とはいっても、ほとんど座談会形式なので、皆 それぞれに自由に発言できるし、何よりもためになることがストレスなく身に付くので、全く新しいタイプの勉強会と言える。
多分、始めてから3年以上は経っていると思うが。
今日初めて聞いた言葉が“老人力”
歳をとって老いていくことをポジティブに捉えて、余生を明るく楽しく過ごそうと言う発想。
その”衰えること“を”老人力“と呼んで普通とは全く逆の見方をする。
目次
ポジティブ思考 “老人力”
実は、”老人力“と言う言葉を今日初めて耳にしたので、ネットで早速検索をかけてみたところがこちらの方がヒット。
98年にこの題材で書籍を発表していてどうやらベストセラー。
白状すると、中身を読んでいないのでおよそコメントには値しないかもしれないが、意図するところはほぼ推察することが。
今日の勉強会で取り上げられた題材なので、そのあらましは詳しく説明を聞いて私自身も考察することに。
一言で言うなれば「ポジティブ思考」を実行すること。
物忘れの捉え方
” 物忘れ“をどのように捉えるかだけど、
”物忘れをしたと感じているうちはまだ本当に老化したとは言えない“らしい。
なぜならば、「物忘れしたとしっかり自覚している」から。
「老いる」と言う事は「忘れたことそのものを認識しない」のだ。
つまり見るもの聞くもの全てが新しく新鮮そのもの。
誰のどんな話を聞いたところでそれは全て初耳になるので、新鮮この上もない。
認知症の勉強も盛んにさせてもらっているので、認知症と物忘れの境目とも言うべき症状がある。
- 朝ご飯に何を食べたか思いだせないのは物忘れ。
- 朝ごはんを食べたこと自体を忘れてしまうのが認知症。
体力的な衰えとは
年取って第一に感じる事は体力的な衰えと言える。
同期息切れなどの心肺機能の衰えももちろんそうだが、例えば膝とか腰とかどうだろうか。
少し長く歩くと膝が痛くなったりはしないだろうか。
また腰痛などが続いたりする事は無いだろうか。
これらのことも、自覚できることそれ自体がむしろ新鮮と捉える。
体がそこでしっかりと悲鳴をあげていること自体が、しっかり生存していることへの証明のようなもの。
大体、体力に自信のあるうちは、無理や無茶を繰り返すもの。
その状態で身体に対する感謝の気持ちなど起こるだろうか。
私も若い頃は、ほとんどデタラメに近いような自分自身への酷使を、平然と経験してきた。
何度か体は悲鳴をあげ、活動することを拒否された。
重労働が長く続いた後、朝起きて仕事に行こうとしたところが、体は全く動こうとせずそのまま救急車で病院に担ぎ込まれたことが2度ほど。
何の自慢にもならないが、その時は自分自身への体のいたわりなど考えてもみなかったのだ。
歳をとることによって、若い時ほどの無理も無茶もしなくなったが、体のほうは順調に耐用年月を経て、もう全く無理のきかない状態。
しかし、そのような自覚を突きつけられると言う事は、これからあと残された時間、自分自身の過酷な労働に耐えてきたこの体を、感謝の気持ちを込めていたわってあげれば良いのではないか。
最近はいろんな意味においてポジティブな思考をしなければ、日常生活が、ただただつらく苦しいだけだと痛切に感じる。
まだ感じること、受け止めることが充分可能なこの時期に、いくつかの優れたマインドに出会えたのは、自分なりにとても評価できている。
衰える事は恥ではない
老齢世代への提案
歳をとる事は、誰しもが避けられないことなので、”恥“と思う必要は無いはず。
もちろん、だからといって自慢するつもりは毛頭ないが。
大切な事は、歳とることを隠そうとしたり、無理をして若く見せようとしたり、またそのような行動をしてみたりすること。
あらゆる場合において、自然体が1番良いはず。
自分が 今感じていること、考えていることがネガティブな内容だったらばすぐに止めるべき。
心や体を痛めるだけで、自分へなんら良い影響を与えない。
ポジティブに受け止めることができたならば、少なくとも残りの人生になにがしかの希望が生まれると言える。
歳をとる事は、“ごくたまにひょっとしたらを考えるのだ”
『明日の朝このまま目が覚めなかったなら?』
そう思う事はないだろうか。
今日の後に、必ず明日がやってくると信じていられる事は何にも増して幸せではないか。
自分の人生に見切りをつけて、絶望した人は明日の朝の事など考える余地もなく。
生きることを希望を持って受け入れる事はつまりそういうこと。
明日の朝にそれほどの不安を感じていないならば、それだけで充分過ぎるくらい幸せだろう。
これからの時代を担う若い世代へ
これからの若者の未来を考えると正直やるせない気持ちになってくる。
若者が年寄り世代を支えると言う考え方そのものが、ある意味方向が違うと思うのだ。
老齢世代は若者世代の負担になることをヨシとはしていない。
老齢世代は自分たちでしっかりと地に足をつけて生きていこうとしている。
“私たちを養ってくれ”
と、そう考える人は極めて少数派。
見ず知らずの若者に自分の生活の面倒を見てもらうことなど、私などありえないことだと思っている。
自分の暮らし方は自分で決めるしかないと。
今の若者も、年寄りも、要するに私たちの人生はすべて未経験なことの積み重ね。
私自身もこの年になって様々な事は勉強させてはいただいたが、これから起こる事は全て初めての事ばかり。
例えば死に至るような病気をする場合だって考えられる。
私は両親ともに膵臓癌で失っているので、両親が死んだ年齢を考えると同じ運命を想定すれば、私はあと10年ほどでそのような重大な病気になる可能性が高い。
今元気に生きている若者とて、明日は何が起きるか分からないだろう。
突然やってくる命に関わるような出来事もその時でなければ何もかもがわからないことだらけ。
しかし、世の中の仕組みとして先立つもの、つまりお金だが年金制度は若者の収めたものを年寄りが受け取る形に。
良い悪いは別にして、そのシステムで今は世の中全体を回している状況。
正直なところを言えば、これ以上の負担増を若者に求めるのはそれはやり過ぎかなとも思う。
払う側の立場になってみればとてもじゃないがたまったものではない。
しかし、年金を主な収入源としている私にしてみれば、これ以上、年金を減らされるのは、これもまた生活ができなくなる可能性が。
基本的にお金はあるもので暮らすしかないので、多い少ないの議論ではなくなるのだが。
あまり大きな事は言えないが、私が思うにそれぞれの世代ともにじっと耐えるしかないとそーゆー部分が多いと考えている。
社会のシステムではそうならざるを得ないのが実情。
年齢を経た今だからこそ
もしもあと1週間で命がなくなるとしたら
1週間でも1日でも考え方は同じだが、自分の命の期限を限られた時に一体どのように考えて行動するのだろう。
当たり前のことだが、個人差があるのは否めない。
参考までに私の普通の意見を披露したい。
私は命の期限が過ぎられたとしても、今の生活のルーティーンを変えるつもりは全くない。
今繰り返している日常を普通に繰り返すだけ。
そうやって命の消える日を迎えたいと考えている。
これから何かやり残したことがあるとして、期限を区切られたからやると言うのも賢い判断とは思えないし、それを成し遂げたところで単なる自己満足なのかもと思ってしまうのだ。
今、毎日感じている様々な事柄に対して同じように感じ、同じように考え続けること。
それを同じように繰り返していく。
ただし、1つだけどうしてもやっておかなければならないこと。
それは可能な限りの身辺整理。
このまま自分が死んだとすれば、この散らかった部屋その他の後始末を誰かの手を煩わせて行うことに。
そのことがとても心残りで申し訳ないと思うのだ。
今まだ何とかなるうちに可能な限り整理をして、後に煩わしさを相続させないようにしたい。
このことを考えている。
自分がこの世に存在したことを何かの形で残したいなどとは毛頭考えない。
普通の人とは全く逆の反応かもしれないが、私がこの世からいなくなったときには私自身のことをとっとと忘れていただきたい。
誰かの記憶の中でいつまでも存在価値を主張するような無礼なことにはなりたくない。
「立つ鳥跡を濁さず」ではないが、死に際しての清らかさとは、そんなことだと勝手に解釈している。
高齢化社会を本当の意味で支えるために
根暗な年寄りなど誰も見向きをしないだろう。
それは明るく振る舞うことこそ、人とのコミニュケーションをより健やかで確かなものに導くからだ。
年寄りは誰よりも明るく朗らかな存在でなければならないだろう。
様々な人生があるので一概には言えないが、大抵の人はそれなりの苦労や悲しみ悔しさなどの経験の上に、今の人生が成り立っているはず。
そのことをそのまま他人に披露するのは迷惑行為と言えるだろう。
無理に自己主張することなど必要ないのだ。
世の中の人たちは、頑張って自己表現する人たちをそれほど好意的に受け止める暇など持ち合わせてはいない。
若者から年寄りに至るまで大抵の人は忙しい。
その「忙しさを煩わせるようなことをしない。」
私の中ではとても大きなアイデンティティーと言える。
私自身、人様の邪魔をしないが、できれば邪魔もされたくない。
ひょっとしたら老若男女問わず、今の時代を生きる人々の共通理念かもしれない。
とりあえずはそのことをしっかりと受け止めた上での話になるわけだ。
もちろん、人からの相談にも耳を貸すわけだし、力にもなってあげたいと思うのだが、現代人はおしなべて人との関わりをあまり得意とはしていないように見受けられる。
その模範となるべきは歳をとった世代だろうと言える。
どう関わったら上手く物事が回っていくのか。
自分の利益だけを追求するような輩には、到底無理なことなのかもしれないが。
今日の勉強会で久しぶりにカルチャーショックを受けた言葉が『老人力』
私も何を隠そう『老人』の1人。
潔さと根性で『老人力』にさらに磨きをかけたいもの。