この時代パリでは様々な芸術家が独自の感性を駆使して様々な作品作りに勤しんでいた。
今日のエールは他でもないパリ留学をしていた日本人たちの物語で、
その当時の活躍していた画家と言えば、ピカソとダリ。
今思いだしてもやっぱり凄いと思うので。
20世紀最大の芸術家とされている、スペインの生んだ天才ピカソ。
ずいぶん長生きをして、有名な作品も数限りなく残している。
彼の絵を見て正直に白状すると、素晴らしいと感嘆するところに至らない自分が、ちょっと悔しい気がして、ずいぶん昔から何度も理解しようと努力した経緯が。
パブロピカソはこういう画家
ピカソの作風のことをキュービズムと呼ぶんだそう。
調べてみて、説明の文章を読んでもいよいよわかりにくくなるので、まぁ、ざっくりとした説明をすれば、普通の絵は目に映ったものをそのまま書き写すやり方で描かれる。
要するに写真みたいなものを想像してもらえればわかりやすい。
写実的に描けば描くほど写真に近くなる。
これに対してキュービズムは1つの対象を様々な角度から眺めてみる。
そして立体的に捉えたそれぞれの視点を1枚の絵の中に表現する。
要するに人の絵を書こうとするときに、右側から見た人物と左側から見た同じ人物を1枚の絵の中に表現しようとする
視点が違うものを1枚の絵の中に投入すれば明らかに違和感のあるものには仕上がるのだが、キュービズムはそこに美を見いだすのだ。
ピカソが26歳の時の作品。
藤田嗣治がこの絵のことを知らなかったわけはない。
彼自身このような構図で絵を描いているような気がするので。
ピカソの絵に関して言えば、周りの人たちはついに“ピカソは気が狂った”と評した。
ぱっと見た目は絶対におかしいので、何をどういじくればこんな絵になるのかと思ったに違いない。
全体がピンクで統一された、複数の女性を描いていることはわかるのだが、やはり顔に理解不能な違和感を感じてしまう。
特に右側に描かれた2人の女性の顔は、やはりわからないと言える。
こういった絵をきっかけに、ピカソの作品はやはり難解であることが先に立つのだ。
しかし、難解な絵は私もたくさん見てきているが、まだピカソの作品は上下がきちんと判別できるので、どちらかと言えばわかりやすい部類に入る。
本当にわかりにくい作品だと、上下左右どちらかわからないものがあって、全く感想を述べることにもならない。
ざっと絵を見て、どちらが上か下かを判断して、(たいていは見る人の目線に合わせて置いてあるはず) 絵をざっくりと見た後で私の場合は、絵につけられた表題を見ることにしている。
表題を見てもほとんどの場合はますますわからなくなる。
とある日本の画家の絵の中で「高速の生き物」と題されたものがあったが、全くわからなかったのを記憶している。
ピカソ自身も、自分自身の作品が誰にもわかりやすいように意識して書いていたわけではなさそうだ。
彼のポートレートにもあるように彼の目は野心で満ち溢れている。
おそらくは、「他の追随を許さない自分自身の独壇場の世界を目指した」に違いないのだ。
ちなみにピカソが唯一激しい嫉妬心を燃やした画家が1人いる。
それは同じスペインの画家サルバドールダリ。
ダリは学生の頃、キュービズムの画法に惹かれて自分でも挑戦しようと思って作品を1枚仕上げてパリに住んでいたピカソの元へ馳せ参じたのだ。
そしてピカソに1枚の絵を“私が描いてみましたがどう思いますか?”と尋ねたところが、 ピカソはダリの質問に一切答えることなく、食い入るようにその絵を見つめた後、激しく憎悪のこもった眼差しでダリを見返したのだそうだ。
その無言の表情は、
「この若造は、俺が苦労して編み出した画法を何の違和感もなく、当たり前にこなしている」
ダリは無言のピカソが自分に激しい憎悪の眼差しを向けてくるのを見て、自分の描いた絵がキュービズムの本物であることを確信したんだそうな。
ピカソもダリも20世紀の生んだ天才である。
言葉を必要としない天才同士のやりとりが、かつてパリの一角で起こっていたことが、なんとも不思議な印象を受ける。
以前テレビで見た番組であの“石原慎太郎”が中学生の頃にとても影響を受けて、この絵を真似して、似たような自画像を描いていた。
この絵の作風はシュールリアリズムと呼ばれる 。
2人の天才たちの持ち味はほとんど狂気とも言える感性。
このように感じて表現できる、驚くべき能力と言える。
天才たちの理解不能な世界が改めて偲ばれる。
老いてますます盛ん女性を愛し続けたピカソ
ピカソのことを調べて出てくるのが女性遍歴。
生涯に7人の女性と付き合ったのだそうだ。
ピカソが、本格的に女性と付き合い始めたのはどちらかと言えば中年になってから以降だと思う。
特に、左側の女性はピカソが45歳位の時に、知り合った17歳のマリーテレーズである。
確か4番目位に付き合った女性と記憶。
ピカソのことを評して、“男のクズ”との記述があった。
平たく言えば、女たらしであったことには違いない。
美術家はそのほとんどが似たようなものと私は理解している。
あのフランスの有名な彫刻家ロダンも、実は女性遍歴が華やかで、やりたい放題やっていたような気が。
ピカソの場合もご多分に漏れずに。
すごいなと思うのは、7人の女性と付き合ってはいるのだが、意外にも同時進行で何人かと付き合ってしまうこと。
大体2人3人ぐらいと平気で付き合っていたようだ。
男子とは不思議な生き物で、そういった破廉恥なことが当たり前にできてしまう。
しかし調べていくと、女性に嫌われるようなことが驚くほどなかったのだ。
むしろ女性に守らなければと思う気持ちを起こさせているようだ。
このマリーテレーズはピカソが亡くなったときに、ピカソの墓の前で自殺を遂げている。
ピカソはこの後も3人ぐらいの女性と付き合うことになるので、マリーテレーズとはほとんど縁が切れていたにもかかわらず、そこまで思われていたとは。
やはり、男性として女心を満足させる類稀な魅力があったのかも。
ピカソのYouTube画像も少ないながら残っているが、普段の生活の中で彼が気にしていたのはやはり作品を作ること。
根っからの芸術家たる所以。
彼の芸術に心酔する同じ芸術家も多かったのだ。
日本の代表的な芸術家“岡本太郎”?はピカソびいきと言える。
テレビのコマーシャルでもあった、「芸術は爆発だ‼︎」はまさにピカソの発想。
ピカソの絵は不思議なもので、私のように理解不能と言いながら、その絵を愛でるファンは多いと言える。
研ぎ澄まされた感性のかたまり
表現者としてのピカソの武器は感性そのものと言える。
対象物を見て感じる。
ピカソの能力はその一点に研ぎ澄まされるのだ 。
ピカソを始めとする芸術家の場合、その感性はまさにウェポン(武器)と言っていい。
YouTubeの画像で見た限りでは、自分で描いてみたり色をつけてみたりしてそこでじっくりと考えている様子。
それは自分で描いたものから何かを感じ取ろうとする表現者としてのピカソ。
このように描こうと思ってはいたはずだが、やってみなければわからない部分が圧倒的に多かったのも事実だろう。
ピカソ自身が暗中模索の中で様々なレイアウトや色彩感覚を駆使していた。
ここに挙げた2枚の女性像は、ピカソらしいモチーフで描かれている。
1枚は鏡に映った女性。
もう1枚は女性が泣く姿。
絵を描く際のテーマをあらかじめ決めていて描いたようだ。
ピカソの作品の中でもわかりやすい部類に入ると私は考える。
ピカソの絵は、理解する作品ではない。
感じること!
見ている我々がどのように感じるか。
それ以上の考察は必要ないのだ。
絵をじっと見つめることで、ピカソの画家としてのマインドを感じる。
“ピカソはこう感じたのだ”とそう思えばいいだけの事。
まとめ
この絵は、スペイン内戦で大量殺人が行われたことに対して、抗議する意味を込めて描かれた。
この絵は実はかなり巨大な絵で、オリジナルはニューヨークにあると思った。
ピカソの思いのたけが描かれている。
一つ一つのキャラクターを見ていると、恐怖であったり怒りであったり悲しみであったり人間が味わうさまざまな苦しみを表現していると言える。
もちろん人間以外の動物もキャラクターとして描かれているが、その意味するところはやはり人の心。
無抵抗な家畜を用いることによって人間が逃れることのできない苦しみを味わうことを表現している。
ピカソの絵は誰もが感じるように、上手い下手で判断する絵ではない。
絵の奥にある様々な喜怒哀楽を感じ取ること。
ピカソが、ただ単に表現者のみではなかったことが、これらの絵には現れているのだ。
画家としてのプロフィールを持ちながら彼は求道者であった。
ピカソの活躍した 20世紀。
21世紀となった今もその感性が揺らぐ事は全くありえない。