徳川幕府が滅んで明治政府が発足とはなってみたものの、しかし時代はまだ混沌としたまま。
我々が歴史で学んだのは大政奉還から明治に至る時代の流れは歴史的事実だけが淡々とつながっているように記憶に残るが、実はこれがかなり問題あり。
日本国民全員のマインドがきちんと徳川から明治にリセットされたわけではない。
1968年で、明治元年。
世の中、明治政府とは名ばかりで、実際は徳川時代の藩制がそのまま生かされることに。
そうでなければ、実際問題 何も機能しなかったのだ。
また天皇を中心とした政府は表題のみ、天皇家に何か力があるわけではなく、基本的には薩摩と長州で政治を切り盛りする必要が。
渋沢栄一はこの時代の移り変わりの中で徐々にその才能を開花し始める。
さらには彼の実力が世の中に少しずつ浸透しつつある時代でもあった。
渋沢栄一のこだわり
栄一が駿府にやってきた目的は民部公子の使い。
徳川慶喜にパリ留学についての詳しい報告をして、さらにはその答えを逐一報告してくれとの命令を抱えていた。
駿府では、早速勘定方としての役職のお願いがなされることに。
この辺の詳しい事情が物語の中できちんと語られている。
この時東京から駿府へめがけて、かつての旗本など幕府の家来衆が大量に流れ込んでいた。
行き場所のなくなった彼らは、徳川慶喜を頼って皆この地へ流れ込んでいたのだが、しかしこれだけ大量の人を養えるだけの財力は駿府藩にはない。
破産間近の財政を何とかしてほしいとの依頼。
事情を聞いて「思わず何とかしなければ」と思う栄一。
いったんは断った役職だが、徳川慶喜が直接声をかけたと聞いて受けざるをえなくなった。


この場面でかつての徳川方の武士たちがどんな思いで暮らしていたのかがよくわかる描かれ方。
彼らは行き場所がなくなってやってきたわけで、自分たちが生き残るためにすがりついてきたわけではない。
結論から言えば、まだ何か役に立つことがあるのではと考えていたのだ。
そして、それはすなわち自分自身の死に場所をそれぞれが求めていたとも言える。
もともとは武士として暮らしていた人たちは、決してさもしい根性で生きていたわけではない。
彼らは世の中のために果たすべき役割をしっかり果たすと言うポリシーがあった。
それ故、かつての主君徳川慶喜のもとに馳せさんじたのだ。
この時代、渋沢栄一はもう武士として生きるつもりはなかったようだ。
パリで学んだ様々なシステムや知識などを利用して、世の中のためになることが自分の生きる道だと確信していたに違いない。
特に大勢の人から少しずつお金を集めて資本を大きくする考え方。
今の資本主義のもとになる考え方だが、日本で最初に採用したのは渋沢栄一だろう。
日本の資本主義の祖とされている所以。
駿府藩勘定方
明治政府は始まったとは言え、財政基盤や政策などもほぼ思いつきの状態で、機能するまでには至っていない。
そんな中で、押し迫っているのは駿府に集まってきた大勢のかつての武士たち。
これだけの大人数(数十万人)を養うとなると、とてもじゃないが財政は追いつかない。
財政を立て直すためには、駿府で新たに事業を起こして収入を得るほかはない。
渋沢栄一が最初に行ったのは、農業などの生活の本となる作業をどれだけ手厚く守れるか。
そんな中、経済を回す様々なシステムについても新しい考えを次々と導入。
しかし、そのやり方は武士として生きてきた人たちにとってはかなりの苦労を強いることでもあったのだ。
武士も町人も一緒に力を合わせなければ生きていけないと熱弁を振るう栄一。
やがて大勢の賛同者を得て、駿府藩は徐々に財政が改善されることに。
家族でひとつ屋根の下に暮らせる
駿府で仕事をすることになった栄一は自分の家族を呼び寄せることになった。
何よりも1番の願いが叶えられたと言っていいだろう。
初めて親子が水入らずで暮らせるようになるのだ。
この頃から、渋沢栄一の様々な手腕は日本全国で知られるようになる。
何よりも大きいのはパリ滞在中に行った様々な投資。
かなりのお金を蓄えることに成功している。
その実績が明治政府のお偉方の目に留まることになるのだ。
徳川幕府の家臣でいながら明治政府にも雇われた人物は他にいないだろう。
経済的な栄一の能力は、他の追随を許さなぬほど先進的で優れたもののようだった。
青天を衝けでは明治時代の様々な偉人たちが次々と登場してくるようになるはず。
おそらく、伊藤博文を始め、当時の経済人たちも既に何人かは物語の中にちらほら。
渋沢栄一の本当の値打ちはこのあたりから本格的に発揮されるのだ。
土方歳三と渋沢喜作
明治の頃の戦で最後になったのが函館戦争。
よく知られているのは土方歳三はここでの戦いで銃弾に倒れて没している。
彼が着ていた軍服がいまだに残っているが、弾の跡がくっきり。
実物を見せてもらったことがあるが、ほとんど蜂の巣状態にされたようだ。
歳三と喜作のやりとりが描かれていたね。
渋沢喜作は生き延びることを選択させられた。
「生きて日本の行く末を見届けてくれ」と懇願する土方。
泣く泣く従う喜作。
明治維新が穏やかな改革なんて、私の中でも絶対にありえないことだと思っている。
どれだけの大勢の人たちが自分自身の心情の為に血を流し命を落としていったか。
明治維新は徳川の武士たちの死に場所でもあったと言うことだ。
この時代は生きることも死ぬことも、同じような値打ちの中で評価されたはず。
今を生きる我々はその時代の継承者であることを自覚せねばならないだろう。