どうする家康はネットで見ると、賛否両論ある大河ドラマなことがよくわかる。
先週のエピソードも、史実をあまりに無視していると散々な意見が出回っていた。
もちろん、ドラマの内容は当初びっくりするほどの捏造があると考えていた。
しかし、脚本家は、歴史的考察の記述をさまざまに調べあげ、ギリギリのところで脚本を作っているのだと、最近になってある程度受け入れられるように。
それは、一般的に世の中に出回っているこの時代の出来事は、全て数十年経った後の江戸時代の創作によるもの
実際にその時代何が起こってきたかは正確には誰も知り得ない。
一般的には、徳川家康の最初の妻瀬名は希代の悪女とされている。
夫とも不仲で、不倫もしていたなどとまことしやかに語られている。
しかし、歴史的な考察は、最近になってから新たな事実が次々と明るみになってきて、実際のところはよくわかっていなかったらしい。
「どうする家康」では瀬名も息子信康も徳川家康に最後まで真心を寄せる家族の一員として描かれていた。
物語の中で、周りの人の恨みを一身に受けている織田信長でさえ、家康の決断に対して、遠回しながら憐憫の情を表していたと思う。
そして、信長は重臣佐久間信盛を追放するが、ここに史実への理由付けを持ってきていた。
今日の物語の中では瀬名も信康も、親子としてお互いの安否を気遣いつつ自ら命を捧げる切ないシーンに登場。
目次
武田勝頼によってばらされた策略
武田勝頼は、今伝わっている歴史では父親から受け継いだ武田家を滅ぼした平凡な武将とされている。
しかし、研究で明らかになったことを詳しく調べると、彼は父以上に自身の領土を広げていた。
少なくとも、武田信玄を上回るだけの実績を上げていたのかもしれない。
織田信長の策略によってへ設楽が原の戦いでは、完膚無きまでに痛め付けられたが、劣勢を跳ね返して勢いを盛り返しつつあった。
その時とられた策略が徳川家の凋落。
瀬名と信康を取り込み、果ては家康までも仲間に引き入れようとしていた。
この物語の中では、瀬名が提案した策略をみんなで実行して、信長を欺くとする作戦だったが、功を欲しがる勝頼はすべての事実を世の中にぶちまけて、瀬名と信康の息の根を止めることにしてしまう。
この後武田勝頼は、自分の家来にも裏切られ自ら滅びの道を歩むことになる。
その時の物語もこの先語られることになるはずだが、今日はその布石が打たれていたと思う。
徳川家康を罠にはめていながら、その結果を聞くにつけ家康を非難していたね。
瀬名と信康
事実関係が明るみに出た以上は、織田信長に申し開きをしなければならない。
そのいきさつもを歴史的な事実を巧みに取り入れながら、見事に脚色して描いていたと思う。
そして、歴史では手紙を受け取った信長が家康の家来酒井忠次に理由を聞いたときに、その通りだと答えたらしいのだが。
物語の中では、そんな消極的には描かれていない。
わざわざ、酒井自ら瀬名と信康を悪者にして切腹させるように説明していた。
実際のところは、替え玉を用意して2人とも逃がそうとする魂胆。
今日の物語では、その作戦がうまくいかなかったと言う設定。
織田信長の判断
この当時の信長は、歴史の中では、すでに安土城も出来上がっており、全国統一の一歩手前だったと思われる。
結論から言えば、徳川家康や武田勝頼などメじゃない位の力を持っていたはず。
そんな事は別にして、信長は徳川家の不始末を家康に自らなんとかしろと詰め寄る。
織田信長への回答として準備されたのが替え玉作戦だった。
信長は、家康がどれほどの決断で不始末の後始末をするのか見届けたかったに違いない。
信長が望むような後始末は、妻と息子の粛清以外にないわけで。
家康の謀
家康は自分の妻と息子に替え玉を用意して生き延びさせようとした。
しかし、瀬名も信康も相手を思いやるあまり、相手が生き延びたことを確認しつつ、自ら命を絶つことで責任を取ろうとする。
歴史的に違うなと意見するなら瀬名が最初に殺されている。
そのあと何日か経ってから信康が切腹したと伝わる。
そして、そのどちらも家康の命令とされている。
この物語では、そのような歴史的事実は捏造と捉え、実際は脚本家が作り上げたストーリーのもと、それぞれが家族を大切に思って自ら犠牲になるような描かれ方だった。
歴史では、こちらの夫婦仲は最悪だったと記録に残るが、物語では間逆に描かれている。
歴史はそれぞれの人たちの気持ちなどを無視して好き勝手に話すと、物語の中でもわざわざ登場人物たちに語らせていた。
歴史の闇に埋もれた事実⁉️
この物語に登場する家康は、後に神として讃えられた徳川家康とはまったくの別人。
いくじなしで、ひ弱で、およそ君主の器ではない。
しかし、自らの弱さを知り抜いている。
登場する織田信長は、そんな家康こそが1番の脅威と捉えていた。
勇猛果敢なだけでは、戦国は生き残っていけない。
家康は、後に江戸幕府を開くまで艱難辛苦に耐えながら、様々な苦労の末 生き続けることになる。