どうする家康は残りの放送回数をカウントできるほどに。
今日で11月分の放送が終了。
どうやら残りの回数はあと3回とのこと。
1年かけた物語もいよいよ完結が近い。
今日描かれたのは、関ヶ原の戦い以降の家康の苦悩。
未だ豊臣人気は衰えず、徳川が実質的な日本の支配権を握ったとは言え、必ずしも盤石なものではなかった。
特に19歳になった豊臣秀頼は、秀吉の威光を引き継ぎ絶大な人気を誇っていた。
徳川幕府は家康から秀忠に代替わりはしたものの、豊臣人気を払拭するには至っていない。
物語が絵描かれたのは大阪冬の陣、夏の陣の前年。
この時徳川家康は70歳を超える高齢。
老齢となった家康は、日々の暮らしの中で自分の寿命が残りわずかなことも意識していたようだ。
家康が心に決めた戦なき世の中を実現するためには今のまま引き継ぐわけにはいかない。
つまり豊臣家をそのまま放置すれば、やがて戦乱の世の中に逆戻りする可能性が大きいと思われた。
描かれた物語は戦乱のシーンがあるわけではなく、どちらかと言えば対面のやりとりが多く、物語としての見所はそれほど多くは感じなかったと思う。
しかし、誰がどんなことを思い何を目指してやりとりしていたかは、克明に伝わったと思う。
物語はいよいよ大団円を迎える。
目次
豊臣のプリンス
伝え聞くところによれば、豊臣秀吉は身長150cmにも満たない小男だったようだ。
その息子が180cmの偉丈夫な事と今でも様々な憶測が飛び交う。
つまり豊臣秀頼は茶々の息子では無いのではと疑う声も聞こえてくる。
しかし、茶々の母親「御市の方」は、当時としてはびっくりするほどすらりとした長身の美人と聞いている。
茶々がどの程度の身長なのかはわからないが秀頼が大男であったとしても、それほど違和感を感じることではないと思う。
むしろ、物語でも丁寧に描かれていたが、豊臣秀頼の優れたコミュニケーション能力の方が家康にとっては脅威だったに違いない。
これだけの優れた人材が大阪城にとどまれば当然慕うものもたくさん出てくる。
特に関ヶ原の戦い以降は、大勢の浪人が溢れ帰っていた。
それは反徳川の勢力となる可能性が充分すぎる位懸念されただろう。
家康の心配事
徳川家康は、豊臣家が目の上のたんこぶなことを充分理解していた。
できることなら、豊臣家を滅ぼすようなことはしたくなかったのかもしれない。
しかし実際に目の当たりにした豊臣秀頼は聡明で涼しげで誰からも愛される存在なことに間違いなさそう。
そして、家康は世の中で秀頼がどんな存在になるかを如実に理解できていた。
このまま放っておけば、必ず徳川の天下を脅かす存在になってしまう。
既に死期が近いことを悟っていた家康は、命をかけて最後の大仕事をしなければと決意した気持ちも納得できる。
家康の跡を継いだ秀忠が秀頼に比べればどうしても劣って見えてしまうのは、気の毒な限り。
注目すべきは家康は後を継いだ秀忠を盲目的に愛していたわけではないこと。
天下をまとめるために将軍として何が必要なのかは十分に教えていたはず。
徳川秀忠は、家康には及ばなかったかもしれないが家康の目指した政治は、落ち度なく行っていたはず。
今日の物語でも登場していた本田正信や本田正純親子も改易処分にしている。
2人とも、徳川家康の懐刀だったはずだが、秀忠は自分が使えないと思った段階で容赦なく切り捨てた。
決してその時のしがらみに流されるような事はしなかったはず。
豊臣家と徳川幕府
徳川家は、豊臣家を公家として扱おうとした。
つまり、貴族として棚上げしてしまえば政には参加できない。
しかし、それらの思惑は豊臣方には筒抜けだったとも言える。
豊臣家は秀吉の後継者としての秀頼を待ち望んでいた。
徳川はあくまでもワンポイントリリーフでしかないと見ていたようだ。
2つの勢力は同時に存在するためにはどうしてもきちんとした理由が必要だった事は間違いない。
決着を求める心
徳川家は、豊臣家を滅ぼすための秘策を模索していた。
歴史をよく知る我々ならすぐに思い出すのが方広寺の鐘籠の文言だろう。
この文章で家康の名前が国家安康の形で2つに分断されている。
これが全くの言いがかりである事は、誰の目にも明らかだが、何とかして豊臣を潰さなければならない徳川が考えたいちゃもんだろう。
しかし、この作戦は見事に豊臣を巻き込むことになる。
その後は、歴史に記された通り。
この後、徳川は豊臣を潰す戦いに入る。
物語の中の家康のセリフから考えて、大砲を抑止力として考えていたのでは。
大砲を打ち込むことで、相手の戦意を喪失させ降伏に導くための有効な手段と考えたようだ。
大阪、冬の陣夏の陣では大砲によって大阪城の天守閣が焼け落ちたと伝わる。
その様子も残りのわずかな回数で描かれるのだろう。