描かれたエピソードの中で、ついに豊臣秀吉が息絶える。
秀吉の最後を届けることになった家康。
歴史の中でも最も知名度の高いこの頃の様々な事件は、当時の人たちが何を考え何を望んだのかが、脚本家の考えのもと、歴史物語として蘇ってくる。
晩年の豊臣秀吉は飽くことのない欲望を満たすため、唐入りを画策。
報道管制の敷かれた中、泥沼の戦いが続いた。
天下人の命令なるが故に、面と向かって意見できるものなどいなかったのだ。
秀吉には焦りがあったはず。
自分自身の権力を委譲できるものは息子の秀頼しかいない。
そのためにわざわざ自分の後継者に指名した豊臣秀次を亡き者にした。
この頃の事件も、歴史には様々な意見とともに今に伝わる。
晩年の秀吉は明らかに狂っていたかもしれない。
秀吉が絶命したのは、1598年。
そして家康が天下の表舞台に颯爽と登場することになった関ヶ原の戦いはそのわずか2年後。
徳川家康は、早い時期から豊臣秀吉を見限っていたと想像されるのだ。
そして家康の主君秀吉とギリギリのやりとりを繰り広げる2人の様子が今日のエピソードの1番の見所になる。
この物語では、徳川家康は、自らの野望のために天下人を目指したとは描かれていない。
家康が目指したのはどこまで行っても、世の中の安寧。
秀吉が亡き後、いたずらに空白の時間を設けてはいけないとの思いから、自ら先頭に立とうとしたような描かれ方。
実際は、虎視眈々とチャンスを待ったのが家康の本心だったと思うが。
目次
家康の準備
この時代、つまり豊臣秀吉が天下人として君臨してはいたが徳川家康の軍事力経済力は豊臣秀吉ほどではなかったが他とは比較にならないほどの実力を備えていた。
特に関東地方に限らず、家康を慕う戦国武将たちは全国にいたものと思われる。
豊臣秀吉にとっては自分の実力は間違いのないものと知りつつ、徳川家康の圧倒的な力は自分がもし死ぬことがあったなら必ず台頭してくるものと納得していたに違いない。
特に小牧長久手の戦いで家康に遅れをとってしまった秀吉は自分の後のことが心配でならない。
歴史に伝わる様々な記録ものは大抵の場合勝者の歴史。
後から大掛かりな手を加えられ、史実を忠実に記録しているとは限らない。
関ヶ原の戦いに至っては、徳川時代に大幅に書き換えられた過去がある。
最近になって様々な歴史現象が進んで新しい事実も発見されつつあるようだが。
秀吉の終焉
この頃の秀吉は明らかに狂い始めていたと言える。
もともとひらめきと瞬時の対応力で、のし上がってきた秀吉の人生。
弟豊臣秀長が亡き後は、まともに秀吉の側近と言えるものはほぼいなくなったと言える。
秀吉の言いなりになるものは多かったが頼りになるものはいなかったのが本音だろう。
このときの秀吉を、象徴するような事件が豊臣秀次の切腹事件だろう。
秀吉は自分自身の権力を甥の豊臣秀次に継がせていた。
しかし、自分に息子ができたことでその考えを変更。
秀次を粛清してその1族を根絶やしにした。
秀吉の最後の描き方は時代劇として申し分のない仕上がりになっていたと思う。
なくなる寸前とは言え、まだユーモアのセンスを残している秀吉。
秀吉に最後まで付き添っていたのは、正室の寧々。
茶々は最後まで悪女を演じきっていた。
引き継がれるか否か
秀吉は自分の亡き後は家康が権力を引き継ぐとうすうすわかっていたようだ。
死ぬ間際となっては、天下の安寧などどうでも良いことだと言いたい放題。
家康は自分は石田三成の政治を支持すると言っては見るが、そんなことを鵜呑みにするほど秀吉はもうろくしていない。
家康はこのとき、酒井忠次から遺言を授けられていた。
家康は織田信長、豊臣、秀吉のまとめあげた、世の中の仕組みを自分なりに継承しなければとの使命感に目覚めていた。
もともと頂点に立つことを望んではいなかった家康。
戦さで世の中が乱れることを何よりも嫌っていた。
ここから家康の本来の実力が遺憾なく発揮されるときがやってくる。
物語では、悪役と呼ばれる人たちの存在がくっきりと描かれることに。
豊臣秀吉は、徳川家康にとっては、それほどの悪役とは描かれていないような気がする。
1番の悪役は茶々だろう。
秀吉の臨終の時の1連の行動が彼女を悪女たらしめていたように思う。
歴史の趨勢
私がとりわけ注目しているのは、秀吉が死んでわずか2年後に関ヶ原の戦いが起こっている。
何の準備もなしいきなり家康が方針転換したとは思いにくい。
秀吉の忠実な家来を演じつつ、実際は腹の中では自分がとって変わることを着々と準備していたんだろう。
そうでなければ、こんなに素早い行動にはなり得ない。
おそらく家康は信長や秀吉の足りなかったもの、達成できなかったことを常に考えていたように思う。
そしていつからか自分自身が天下人を引き継がなければとの思いに駆られていったようだ。
ここからの徳川家康は、とんとん拍子で老獪な準備を重ねていく。
戦を徹底的に嫌いながらも、必要ならば、武力を行使する。
徳川幕府の武断政治の真骨頂がこの頃形成されたものと思われる。