ずいぶん前に見た特集番組だがアポロ11号のアームストロング船長を取材した番組。
彼がどのような経歴でNasaに入ったのか、そしていかにしてファーストマンに選ばれたのか、そのことを調査した内容だった。
奇しくもアポロ11号は私が高校1年の時、1969年の7月だった。
ちょうど夏休み前だったのだが、朝、眠い目をこすりながら早起きしてテレビの生中継を見た記憶が。
目次
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アポロ計画に基づくアポロ11号
実はこのアポロ11号、いきなり月へ行けたわけではない。
この当時は、アメリカとソ連の宇宙開発がしのぎを削る競争だったんだよね。
実は先手先手で攻めていたのはソ連。
人類初の人工衛星も有人飛行も全てソ連が人類史上初だったのです。
これははっきり言ってしまえば、お互いの国と国がメンツをかけたメンツ争いでもあった。
しかしそんなたわいもない理由でこれだけの計画をと思う向きは多いはず。
アメリカはこの時、Nasaを立ち上げて宇宙開発専門の部署を設けた。
アメリカの友人飛行計画はまずジェミニ計画から。
アポロ11号のアームストロング船長はこのジェミニ計画をはじめ、初期の計画から全て参加していた。
彼はもともとは空軍のテストパイロット。
その当時世界最速と呼ばれた戦闘機Xー15があったが、そのパイロットであったことでも有名。
ジェミニ計画の後からアポロ計画が出来上がってきたのだ。
この当時の大統領が有名なケネディ。彼は60年代末までに月に人間を送り届けて戻ってくる旨を世界に向けて発信した。
はっきりってロケットもなければ、計画そのものもこれから作ろうと言う話し。
普通に聞いたならば荒唐無稽な冗談とも言うべき発表だったと思う。
しかし大統領イチオシの計画はアメリカのメンツをかけて進んでいった。
アポロ計画では何種類かの打ち上げ用ロケットが用意されたが、月旅行用に設計されたのはサターン5型と呼ばれる史上最大のロケット。
高さが110メートルを超える超弩級のロケットである。
重さは3000トン近くまであり、驚くことにはロケット全体の重さのうちの99%以上が燃料なこと。
比較してみると普通の卵よりも殻に相当する部分が薄かったらしい。
計画を遂行するために、アポロ8号で初めて月の周回軌道に入り、アポロ9号からは月着陸船も同時に打ち上げてシュミレーションを行った。
アポロ10号では月に着陸こそしなかったのだが、月着陸船を伴った月周回軌道にまで達して、月の表面ギリギリまで降下訓練を行った。
アポロ11号はそうした準備を元に満を持して出発。
下世話な話だがアポロ一機を運用するのに日本円でおよそ2兆円かかるらしい。
国家の威信をかけたとんでもない事業だったわけだ。
月着陸は何のため
この発言がもとで月着陸を目指すことに。
ケネディー大統領は1963年に暗殺されているので、彼は月着陸には立ち会えていない。
彼のなき後も月着陸を目指したアメリカの熱意はどこから来たのだろうか。
それは当時冷戦と呼ばれたソ連との対立が理由の全て。
宇宙開発で遅れをとる事は、すなわち国家の安全保障そのものが脅かされるとんでもない事態との認識があったわけで。
その当時、アポロ11号の打ち上げはソ連と競い合うように行っていたのである。
実はソ連も月へめがけてロケットを発射し、岩石を採集して持ち帰る計画が実行中との報道が盛んになされていた。
ただし、それは無人で行っていたとのこと。
今にして思えばそんなものはガセネタだったとわかるのだが。
当時はソ連に遅れをとってはならんと死に物狂いで計画を進めていた。
アポロの月着陸ではいくつかの新しい計画が導入されている。
- 月へ行く途中で月着陸船を引っ張り出してドッキングし直す
- プログラムによる自動制御の方法を導入してヒューマンエラーを極力減らす
- 月に着陸した後、船外活動をしてさらに月を脱出する
- 月周回軌道で帰還してきた月着陸船と再びドッキング地球へ帰還を目指す
- 計画実行中は地球との定期交信を行って様子を報告
ざっと挙げただけでもこれだけのことが当時行われていたのだ。
アメリカがこのことを全世界にテレビ新聞などを通じて報道していたのはとりもなおさず国力を誇示するため。
要するにソ連を牽制していたのである。
しかし不思議なものでこの宇宙開発を米ソ冷戦の象徴とは、世界の人々はそれほど強く認識はしていなかったと言える。
それが証拠に、11号が月着陸でアームストロング船長が月に降り立ったときの映像を見てソ連でも拍手喝采が起こったと聞いている。
米ソ関係なく世界中で賞賛された偉業を達成した。
ただ、参考までに言っておけば、反対意見もそれなりにあったのである。
日本でも数学者の岡潔さんが歯に衣着せぬ物言いでテレビでぼろくそにけなしていたのが印象的。
当時、アメリカはベトナム戦争は泥沼で、しかも金食い虫のアポロ計画を抱えていた。
とてもメンツだけでこれだけのことを継続するには誰の目にも無理だとわかる。
待ち受けていた様々な困難


何かで聞いたことがあるのだが、月への周回軌道に有人飛行で最初に乗ったのはアポロ8号である。
要するに行って帰ってくるだけのことなのだが、それでも成功の可能性は30%ほどと言われた。
あまりにも距離が遠いし、どこでどんな失敗があるのか想定できなかったのだ。
アポロ計画での最大の難関は月着陸船をめぐる1連の計画の遅れ。
月着陸船は全体の計画から見て、その重さを厳しく制限されていた。
とにかく可能な限り無駄を省きまくってこの姿。
宇宙船の中の乗組員のスペースは聞いたところではドラム缶2本分程度と聞いている。
当然、飛行士たちが座るスペースは無い。彼ら2人は立っていた。
そしてこの着陸船に新しいシステムが導入されていた。それが自動運転のシステム。
プログラムによって自動的に機体をコントロールする。
Nasaが計画の後半でギリギリ導入した新システム。
とにかくアポロ計画では宇宙飛行士たちのやるべきことが膨大すぎて、どれだけ鍛えられた飛行士といえどもヒューマンエラーが必ずと言っていいほど起こっていたのだ。
よくあったのは間違えてボタンを押すこと。
ボタンそのものを誤って壊してしまうこと。
アポロ11号の時も実際起こったのである。
月着陸船が降下を始めた時に、エラーコードが発生したのだがその元になった原因はオルドリン飛行士の犯したボタンの押し間違いである。
そして月から離陸するときにはアームストロングは離脱のためのロケットの点火スイッチを破損してしまった。
この時はオルドリンがボールペンでスイッチを押したと聞く。
今考えれば、ありえないようなアナログな世界である。
月着陸船の内部ははっきり言ってあまりに狭い。少し乱暴な動きをすればそこら辺の重要な計器など、皆 なぎ倒してしまうのではないか。
そういった綱渡りな計画の中で月着陸は行われた。
それから、これも当時盛んに言われていたが月着陸船一機の値段。
確か重さは17 tほどだったと思うが、同じ重さの金よりもお高いと聞いたことがある。
開発費その他を含めれば、そのくらいになるのはやむを得ないことなのか。
経験したことのない所へ行くわけだから、安全とと同時に目的を達成可能な性能。
この無理難題とも言うべき事柄をクリアして着陸船は出来上がった。
それもギリギリで。
計画を最後まで遂行するために必要なものは一言で言うなれば情熱だったろう。
しかしその情熱を維持し続けた当事者たる人間は悲しいかなとにかく間違いを犯すのだ。
アポロ計画の最大の安全保障はヒューマンエラーに対するギリギリまでの手当て。
間違えたときにどうするか、その事は想像力を駆使して、皆、改善策に集中したようだ。
大体、宇宙飛行士たちは、自分以外のものをあまり信用しない特殊な人種とされていた。
テストパイロットをしていたものが多かったが彼らが頼りにするのは自分自身。
自分以外のものに身を委ねるなどありえないことだったようだ。
せっかく自動制御のシステムを用意しても、1部のパイロットたちはスイッチにすら触ろうとしなかったようだ。
このような人たちを相手に一生懸命 プログラムを組んだ技術者たちの苦労が偲ばれる。
やがては技術者たちの願いが叶って自動制御システムは稼働することに。
さて、アポロ11号の計画で感心したのは、とにかく一般向けのテレビ放映が多かったこと。


サービス精神がテレビの放送を多くしたと言えるのだろうか。
ほかに何か意図するところはなかったのか?
この計画では、とにかくテレビ放送をするためのカメラの位置とかが、しつこいぐらい検討されたと言われている。
特にアームストロング船長が初めて月へ降り立つときのタラップを降りるシーン。
あの時のカメラマンも実は種明かしがあって、あらかじめ着陸船本体に取り付けてあったカメラのスイッチを入れるのだが、入れたのはタラップを降りるときにアームストロング船長 自らが行っている。
なかなかユニークな方法で、タラップを降り始めるときに手を伸ばしてカメラのカバーを外すと聞いた。具体的にはロッドのようなものを引っ張ればカメラが現れて直ちに自分自身を撮影するようになると言うもの。
グラム単位で重さを削っていた月着陸船に、なんとしてもその装置を搭載した根性は見上げたもの。
そして月からの映像を世界中の人たちがテレビで見ていたが、その電波を受信することにも大変な苦労があったと聞いている。
11号からの電波を地球で受信していたのはオーストラリアの受信機と聞いている。
それも機械の周波数やら何やらクリアできていない問題が山積みな中で、あの白黒の映像を送ってきたわけだ。
この計画の有用性をなんとしてもアピールしたかったようだ。
下世話な話になるが、とにかく鬼のようにお金のかかった計画。
そのお金をなんとか目をつぶって出していただくための苦肉の策だったのかもしれない。
アメリカはこの後、長いこと財政赤字で苦しむことになる。
アポロ計画も最後まで行う事はなかった。
アポロ20号まで計画していたが、実際は17号で打ち切られる。
あらかじめ作ってあったロケットは一機はスカイラブ計画で打ち上げて使用し、残りの2機は博物館展示である。
計画を断念せねばならなかった最大の理由はお金である。
計画がもたらした実績も輝くものがあったのだが、それは17号以降長い年月をかけての研究素材を提供できたこと。
月着陸が成功してから



月旅行をしてきた飛行士たちに共通して芽生える独特な感性がありそうな。
それは地球がいかに壊れやすいものかを肌に感じるのである。
月から見る地球は地球から見る月に比べてはるかに大きくきれいに見えるそうだ。
このような経験をした宇宙飛行士に特徴的なのは、地球に対する独特な愛着がわくようだ。
地球を守らなければならないと特別な使命感を抱くようになった人たちが多いと聞く。
宗教家になったものさえいるくらい。
画家になった人、講演活動をする人。
そのような中でアームストロング船長は、Nasaに残ってはいたのだがワシントンの本部でデスクワークを任されることに。
実は、根っからの技術者であるアームストロング船長は、そのような働き方に拒否反応を示し、わずか2年ほどでNasaを退社するのである。
その後も大学で教鞭を取ったり博物館の館長をしたり、様々な場所で声をかけられるのだが、彼自身は人前に出て話す事は正直苦手だったようで、そのことから極力避けるようにしていたようだ。
テレビでよく特集番組などで彼の映像が流れてくるが、あれは頑張ってサービス精神を発揮した結果だったらしい。
自分自身が技術者であること、実際にパイロットとして現場に出ることなど、そのことを自分の使命として決めていたようなのだ。


彼が82歳で亡くなったときには画像である通り、水葬にされたようだ。
彼の遺言だったのかもしれない。
彼は、朝鮮戦争の頃から軍に所属していて、主な仕事をテストパイロットと様々な技術的なデータの収集などを行ったようだ。
また技術者として様々な機器に対する専門家としても活躍していたようだ。
彼の宇宙飛行士としての出発は周りから強く推薦されたことによるもの。
彼は3人の子供を儲けたのだが、長女を脳腫瘍で失っている。
ちょうどその時期に宇宙飛行士としての活動を始めているのだ。
家庭でも寡黙で口数の少ない父親だったと聞く。
彼を題材にした映画ができたくらい。


実はこの映画は今年の2月封切りでぜひともみたかった映画だったが、スケジュールの調整がつかなくて見ることが叶わなかった。
どうやらレンタルビデオ店では新作として並び始めているようだ。
そのうち借りてきて見てみようかなと。
映画になるぐらいの有名な宇宙飛行士。
彼が月に降り立ったときの有名なセリフがある。
「この一歩は1人の人間にとっては小さな1歩だが人類にとっては偉大な1歩である。」
さて、彼以降 偉大な一歩を踏み出せるような資格のある人間は今後出てくるのだろうか?
また、アメリカは火星往復の計画も立てているようだが、実現可能かどうか。
アームストロング船長はこう述べていた。
「火星へ行く事は、我々が月へ行った時よりももっとたやすいはずだ」と。
人類の科学の発展に寄与した先人のこの発言はとても重く感じる。