太平洋戦争で思い出すのはそのほとんどが、海軍とかに関わるエピソードが多いが、実際問題として陸軍海軍ともに戦闘が多くて、そのうち陸軍の関わった作戦は、ことごとくが厳しく凄まじいものだったと記憶する。
代表的なものはいくつかあるが、特に中国大陸に進出した関東軍などが有名だが、南方方面に散った様々な陸軍の部隊が多かった。
私がある程度記憶にあるのは、今回取り上げるガダルカナル島をめぐる戦い。
早い時期からこの島を攻略することを考えていた日本軍は、真珠湾攻撃の翌年と言うこともあって、アメリカ軍に対する認識が甘かったのかもしれない。
ロクに確かめもせず、部隊を派遣しては全滅させられる、惨憺たる戦場となったのだ。
目次
ガダルカナル島をめぐる戦い
真珠湾攻撃が成功したことを受けて、特に南方戦線オーストラリア近郊にまで日本の勢力範囲が及んだ。
そこでこの地域の制空権をものにするために、ガダルカナル島に目星をつけて飛行場を作ろうと計画。
しかしこの飛行場建設をよしとしなかったアメリカ軍は10,000人以上の大部隊を投入して飛行場そのものを強奪。
こうしてガダルカナル島はアメリカ軍の支配下に置かれることに。
実はこの島をめぐる戦いには日本の海軍と陸軍の足並みの不揃いが露呈した事実があった。
大体 この時期の日本陸軍は主力はなんといっても中国だったのだ。
南方戦線は中国方面の作戦の傍らで作られた作戦だったのだ。
はっきり言えばそれほど力の入った作戦とは言えない。
飛行場建設が中心なので、戦闘要員が圧倒的に少なかったことも後に来る惨劇を大きくした可能性がある。
1946年8月から奪還作戦が始まった。
実はこの時にもまともな情報などなく、いい加減な思い込みで部隊を投入している。
最初に作戦に加わったのが旭川第7師団所属の一木支隊。
彼らは総員2300名。
実際に作戦行動には入るのだが、深いジャングルに阻まれてなかなか思うように進軍できない。
そして見通しの甘かったことには、補給をきちんと確保していなかったのだ。
ガダルカナル島への補給はこれは陸軍担当の作戦なので、陸軍の徴用船が配属されていたはずだが、島に船が近づこうとしてもここにある飛行場から米軍機が発進して直ちに攻撃を加えることとなり、島にたどり着く前に沈没させられたようだ。
またこの海域には潜水艦が多数配備されており、潜水艦の格好の餌食となったのだ。
こうして、陸軍の主な部隊は一木支隊から始まって、合計30,000人ほど投入されるのだが、およそ2万3000人が戦死している。
最初の一木支隊で 2300名。
一木支隊は隊長以下ほぼ全滅である。
ガダルカナル島は別名“餓島”と呼ばれる。
これは戦闘でももちろん人はたくさん亡くなったが、食べ物がなくて餓死するものも多かったのだ。
ここのジャングルにはおよそ食べられそうなものは何もなかったと、生き残った人たちの証言からそうきかされている。
アメリカ軍はしっかりとした輸送ルートできちんと補給を受けておりガダルカナル島の空港をめぐる防備は時間が経つにつれ完璧なものになっていった。
特に周りがジャングルなので、そのジャングルを越えてくるものに対して自動で銃を発射するようなシステムも、この時初めて導入されたと聞く。
これは音波探知機を利用したもので、複数のマイクを設置しておいて拾った音からどこから人がやってくるのかを判断してそこへ向けて自動で銃を発射する。
このシステムでずいぶん多くの日本兵が死んだと聞く。
補給路を断たれるとどうなるか
日本のこのときの南方戦線の致命的な弱点は日本の本土と前線をつなぐ補給のパイプが極めて不完全だったこと。
昨日のブログでも書いたのだが、日本では船を作るのは戦艦などに限られており、貨物船や兵士を移送するための船は、すべて民間から徴用された。
実はこの時にきちんと護衛をつけて送り出すべきところを、ろくな護衛もつけずに出発させているのだ。
そして、その無防備な状態をアメリカ側に暗号解読されて、筒抜けになっていた。
一木支隊のわずかな生き残りは次の川口支隊が送り込まれた時に、見る影もなくボロボロの姿で島に残っていたようだ。
気の毒に思って川口支隊のものが米を差し出すと、そのまま生でボリボリ食べ始める。
ほとんど何も食べていなかったことがすぐにわかったが、この時1週間後にはこの川口支隊にも同じ運命が待ち構えているとは誰も思わなかったようだ。
陸軍は陸上で戦うことに関しては経験もあって慣れていただろうが、輸送その他は不慣れなこともあって、作戦がきちんと生かされなかったのだ。
そしてなんともお粗末なことには、同じ島に海軍も似たような作戦で配備されていたのだが、それぞれが意見交換する事はなく、大体相手が何をやっているのか知らなかったと言っていいのだ。
このような状況では、勝てるものも勝てないだろう。
何よりも現地に派遣された兵隊たちがあまりに気の毒で惨めである。
ガダルカナル島の戦いはこのような事だったのだ。
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撤退せざるを得なかった。



大勢の兵隊たちが亡くなって、今日までに何度も遺骨収集の捜索隊が出されている 。
左側の慰霊碑は旭川市内にある北海道護国神社内の慰霊碑である。
真ん中の慰霊塔はガダルカナル島に設置されている一木支隊の記念碑。
右側の写真が平成28年度の遺骨収集時の記念写真。
昭和17年8月に始まったガダルカナル奪還作戦は翌18年2月に大本営から撤退命令が下った。
誰を責めるわけでもないが、亡くなった2万3000人は犬死である。
誰も責任の取りようもなく、今日に至る。
もちろん、日本国内で様々な犠牲者は発生していて 数字面だけはそれほど多くは感じないが、この間から起こっている地震の犠牲者が大体このくらいではなかっただろうか。
今ならば国を挙げてテンヤワンヤの大騒ぎになるだろう。
まとめ


この戦いで見えてくるのは情報を正しく流さなければ、場合によってはそれが命取りになって大勢の人間が犠牲になる。
これは戦時中の作戦ではあるが、現代でも十分に通用する危機管理と言える。
一木支隊は当初この島に投入されたときには、アメリカ軍はせいぜい2000名程度、
それも、ちょっと脅かせばすぐに泣き出して逃げ出すなどといい加減な情報を教えられていたようだ。
実際は、10,000名を超える兵士たちが配属されていて、航空機その他万全の態勢で整備されていたのだ。
よその島から疲労辛々やってきて 、小手先で島を奪還しようなどありえない話。
そして日本が犯した過ちと言えば、陸軍と海軍は同じ情報を共有していなかった。
彼らを1人の人間に例えるなら、右手が何をやっているのか左手は知らない。
そういった状態だった。
日本軍が南方戦線で様々な負け戦を重ねていくが、ここが初期の負け戦である。
1番最初は海軍が大敗を喫したミッドウェイ海戦。
その次が、このガダルカナル島の戦いと言えるだろう。
小さな島国が地球を半周するような膨大な地域を自分たちだけで網羅して監督していこうなどそれは無理と言うもの。
今考えるならば反省も何もない。
しかしあまりに多くの犠牲者が出ているし、こうして何度も遺骨収集のための捜索隊が出ているのだ。
ガダルカナル島でのこうした活動は、実は、幾度となく行われている。
シベリアやミャンマーなどでも同様の活動は継続されている。
今を生きる私たちにとって、覚えておかなければいけない歴史だと言える。