実はシベリア抑留については、以前にも調べたことがあってそれなりの知識は持っていたのだが。
しかし、ここで知った内容は私の想像を遥かに超える恐ろしい内容。
そこで語られた様々な体験や、国が残した情報などを調べてみても、およそ人間が耐えられる限界をはるかに超えている気がする。
このことを自分の流儀でブログとしてアップすることにとても迷いがあって、しかし、結局のところは、語れる限り披露するべきではないかと結論づける。
太平洋戦争の末期、中国に進出していた陸軍及び一般人が終戦時に日本に帰れる予定のものが、ソ連の暴力によってシベリア方面へ連れ去られた。
権力者スターリンの指導によるソ連は、ポツダム宣言のときの約束に明らかに違反していた。
本来、戦争放棄をした日本兵は、終戦後 家族の元へ帰ることを約束する。
ポツダム宣言にはきちんとそう記述されている。
ソ連は、自分の都合の良い理屈をつけてその約束を無視、およそ575,000人と呼ばれる日本人をシベリアへ送ったのである。
当時のソ連は、ドイツとの戦いで著しく疲弊しており、国内のインフラ整備に圧倒的に労働力が不足していた。
その労働力を補うために、捕虜をことごとく利用した。
ソ連が捕虜を酷使した総数はおよそ600万人に及ぶ。
そのほとんどはドイツ人。
また他国の捕虜も全て同じように労働力として搾取されることに。
目次
合言葉はダモイ(日本へ帰れる)の嘘
中国満州から日本へ帰る目的で集められた日本人たちは、ソ連人の手引きで列車に乗せられる。
その時の合言葉がダモイ(日本へ帰る) 。
しかし、それは明らかな嘘で、夕日の沈み具合を見れば列車が西へ向かっている事は一目瞭然で、東とおぼしき方面へは向かっていないことがすぐにわかったのだ。
行き先は、ロシア北部のシベリアを始め、今のウズベキスタン等 様々な方面へ連れていかれた。
スターリンはロシア国内の様々な労働使役に、捕虜を使うことを考えていたようだ。
575,000人の日本人が連れていかれたとされているが、そのうちわかっただけで57,000人が死んでいる。
日本に帰ってきたのは470,000人とされる。
残りの50,000人ほどは実は行方不明なのだ。
はっきりとした記録が残っておらず、今も調査中なのが現状。
大体は1000人規模でまとめられた労働部隊が作られたようだ。
そしてソ連国内の至るところに配属された。
これらの行為はポツダム宣言に違反している。何度も言うことだが。
また労働をした報酬も本来は支払われるべきところが、そういったものもなかったようだ。
長い人では10年以上もソ連国内に止め置かれたと聞いている。
実は有名人の中にもシベリア抑留の経験者は多数存在している。
思いつくだけでも、三波春夫、三橋達也、吉田正など他にもいっぱいいるようだ。
彼らは生きて帰って来れた人たち。
過酷な労働と劣悪な労働条件で多数の日本人がなくなった。
大体、食事等といってもパンがひとかけらと、後はほとんど具の入っていないスープのようなもの。
およそ味覚など問えるような代物ではなかったようだ。
言語を絶する労働
労働は主に森林伐採、鉄道の敷設である。
シベリア鉄道なる有名な線路が今もあるが、あれはほとんど捕虜の手によって作られたもの。
過酷な労働でバタバタと人が死んでいったが、人が死ぬとその線路の脇に簡単な穴を掘って埋められたと聞いている。
実は穴を掘るといってもシベリアの永久凍土では、ツルハシを死に物狂いで振ったとしても、わずかに土がほじくれる程度。
墓穴の大きさは1人分で幅50センチ深さ45センチほどを掘るのだが、大の大人が4人がかりでも日がな一日かかるのだそう。
カチカチに凍った地面はツルハシを使っても、人力ではそのレベルでしか歯がたたなかったようだ。
また収容所では、夜の寒さや栄養失調などで死ぬ人は多く、その後始末もしなければならなかった。
普通は収容所の入り口横あたりにスペースがあってそこに死体を放っておくのである。
ちなみに死体の衣服は全て剥がされたと聞く。
生きている者たちがそのはぎ取られた服をもう一度着るから。
死体は腐ることなく凍っていく。
凍った上に放り投げるので“からん”と音がするそうな。
乱暴な扱いをすると腕や足が簡単に折れたりもしたそうだ。
よく絵で描かれている地獄の様子があるが、ここはまさに地獄と言っていいだろう。
栄養失調は人間の限界を超えており、人の排泄物の中に未消化の穀物を見つけては食べたりするようなことも目撃されていたようだ。
およそ生きている人間のすることでは無い。
シベリア抑留の兵士たちの過酷な労働のあり方はこんな感じだったようだ。
様々に調べてわかってくる事は、ソ連人たちは日本人の掌握をするために、中にスパイを設けていたこともあった。
また盛んに行われたのは、共産主義へのマインドコントロール。
共産主義の本質はアンチ資本主義なので、そのようなことを盛んに吹き込まれたようだ。
極限の肉体的な条件の中でこのような洗脳をされれば、共産主義へなびく者も多かったと聞く。
過酷な労働のほかに、仲間内での疑心暗鬼。
同じ捕虜の身の上ながら、自分の仲間として信じられなくなれば、そこから先は厳しさの上にさらに悲惨さがつきまとうことに。
スターリンはこの当時共産主義の優越性をなんとしても世界に広めたかったことがある。
歴史的に見ても、共産主義国は今や世界でいくつも残ってはいない。
肝心のソ連ですらもう存在はしない。
道徳であったり、宗教哲学のようなものを頭ごなしに否定するような主義主張では、ろくな人間は育っていかないだろう。
実際その通りで、1945年の8月9日にソ連は一方的に条約を破棄して日本に宣戦布告したのだが、そのときのソ連兵の人間としてのお粗末さは、様々な記録が残っている。
略奪、婦女暴行、拷問、リンチなどおよそ人間として最低の行為を限りなく行ってきたようだ。
実はシベリア抑留にあった兵士たちもそうだが、当時一般人として中国にいた婦女子はソ連兵によって凌辱の限りを尽くされた。
それらの女性で生き残った人はごくわずか。
凌辱の後に殺されるか、自ら命を断つかどちらかだったようだ。
これらの事は、過去の調べ物の時にある程度は知ってはいたが、今ネットで調べてみても簡単に検索できる。
当時の末端のソ連兵のレベルの低さは世界中至る所で報告されている。
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映画“人間の条件”でも描かれた過酷な世界
20代の頃であるが確かまだ学生だったと記憶するがオールナイトでこの9時間半に及ぶ映画を見たことがある。
驚くほどシリアスな内容だったのだが原作は五味川純平の6部作の小説である 。
夜8時9時から上映が始まって終わると朝6時を回る。
明け方眠い目をこすりながら電車に乗って自宅へ帰る。
確かそんな流れだったと記憶。
主演の仲代達也が27歳のときの出世作と言える。
相手役の女優が当時2つ年上の新珠三千代。
ギリギリまで追い詰められた2人の切ない世界観がなんとも身につまされて。
映画の最後を今でも覚えているが主人公の中代が 1人厳寒のシベリアの荒野の中を日本へ向かってとぼとぼと歩き出すのだ。
たどり着けるはずもなく、途中で倒れて、“ちょっとだけ眠るから”とそうつぶやいて 息絶える。
この映画の最後はシベリア抑留をモチーフに語られている。
こんなデタラメな世界もあったんだと子供心に衝撃を受けた記憶が。
この当時の映画としては三部作で作られてはいたが全て同時に上映したわけではない。
撮影しながら、編集しながら上映したのだ。
およそ3年かかっている。
当時の有名な俳優を使って肝いりで作られた映画。
さすがに今では放映するテレビも映画館もほぼ見なくなってはいる。
いまだに続く書類の調査、現地に赴く調査
シベリア抑留に関しては、いまだにその正確な実態はわかっていない。
数字もそうだし、名前となればなおのこと。
また抑留者の中には1部女性もいたことがわかっている 。
それは主に従軍看護婦とか、事務を行うタイピストとか。
当時ソ連に連れ去られた者は皆共産主義に感化するように仕向けられた。
中にはそのままソ連に残ったものも数多くいるのだ。
こうなると、調べてみてもなかなか実態にたどり着けない。
今現在はロシアの管理となっているが、ソ連時代の古い記録が今頃になって発見されて、日本人名が記録されていることがわかることもあるのだ。
今でも調査が継続している理由がその辺にあるようだ。
また遺骨の発掘調査も当時の情報をたどりながらいまだに行われている。
日本兵は、埋葬される時にせめてもの情で、頭を日本の方へ向けて埋められたようだ。
そのような発掘調査で発見された遺骨は誰のものなのかはっきりすれば日本へ持ち帰ることもできるのだが、そうでなければロシア国内での埋葬にもなるようだ。
ずいぶん前になるが、当時のロシアの大統領エリツインがシベリア抑留の非人道的な旧ソ連の行為について謝罪をしたことがあった。
しかし、それ以降の話はとんと聞くことがなくなった。
名前も知らずに亡くなられた方も多いのだ。
せめておみたまだけでも日本へ返してあげたい気持ちを持つ人も多いだろう。
シベリアの厳寒の世界に取り残されるのは仮に死んでしまっていたとしても、あまりに切ない気がする。
いろいろとアンテナを張っておかないと、実はこういった調査の事はなかなかニュースとして上がってこないことがある。
見落とすことがないようにしっかりと見張っていなきゃと思うばかり。