昨日からお彼岸が始まって、26日まで。
そして、23日はお彼岸の中日でもあり秋分の日でもある。
お彼岸で思い出すのは第一におはぎとか。(食べ物 笑笑)
そして、ちょうど季節が秋から冬にかけての通過点として。
日本人にとってのお彼岸は、仏教の点から見れば、いくつか知っておくべきこともあるのだ。
目次
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彼岸と 此岸
彼岸(ヒガン)とはあちらの世界。
ちなみにこちらの世界を此岸(シガン)と呼ぶ。
彼岸は、東西南北の西に位置して極楽浄土とも呼ばれることが。
こちら側の世界(娑婆世界)と彼岸を分けるものはよく言われる三途の川。
極楽浄土のことを別名“西方浄土”とも言う。
人は死ぬと、皆 西方浄土を目指すことになっているそうな。
これを聞くと、“いや、私はそんなことを望んではいない”とか、様々な意見が出てくるのも承知。
しかし、死ぬときとか、死んだ後の事とかを知っている人は基本的にはいないはず。
聞いたところでは生まれるとき、死ぬときにはそれまでの記憶がリセットされるとのこと。
ごくまれにリセットされない記憶が残ることもあるらしいが、普通は綺麗さっぱり忘れるらしい。
また死後の世界のことを素直に考えられる人もおそらく五分五分くらいか。
今生きている命が途絶えたならば、ーそれで終わりと考える人も多いだろう。
当然のことながら、どうしてこの世に生まれてきたかもわかるはずはなく。
しかし、好むと好まざるにかかわらず私たちはこのように生存している。
お彼岸の様々な説明は、ネットで調べればいくらでも手に入るが、私があえてブログネタに上げてみたのは、このことを1人称で考えるべきと思ったから。
世の中全体のことではない。
「私自身、あなた自身のこと。」
その目線で調べてみたい。
この考え方は仏教の考え方。
キリスト教やイスラム教などとは全く異なっているので。
仏教徒は、おしなべて“輪廻転生”を受け入れる。
つまり前世があって、その後、縁あってこの世に生まれ落ちて、死後の世界を経て また来世に生まれていく。
そのことを永遠に繰り返すとされる。
ここら辺の詳しい事は、日本の仏教書でもある程度は分かるが、チベット仏教の死者の書に詳しく書かれている。
ただしこちらの本は散文調で謎めいた言葉が多く並ぶ。
読むときには何かのポエムを読むつもりぐらいでちょうどいいかも。
文庫本のものは、オリジナルを直訳したものでページ数は少ないが読みにくさを感じる。
NHK出版の編集したものは取材による部分が加えられているので単行本ながら読みやすいかも。
日本人の死生観にも大きな影響を与えているはず。
これらの精神的な背景は、普段意識することなく私たちの心の中に刷り込まれているはず。
心の奥に思いを巡らせた時に、様々なことに対して自分がどのように反応するかで、自分自身の気持ちの有り様がよくわかると言うもの。
お彼岸とはそうした生き死にについて立ち止まって考えるのにちょうど良いきっかけなのかも。
修行のための方法 六波羅蜜
調べてみてすぐ出てくるのがこちら
六波羅蜜(ロッパラミツ)と呼ぶ
この波羅蜜は「摩訶般若波羅蜜多心経」の「波羅蜜」を指す。
菩薩となって行う修行のことを指している。
ちなみに、訳すと簡単になってしまうが、実際の意味するところはとても奥深いのでこのような重要な言葉は昔から訳さずに“不翻”と行って音をそのまま当てたのだ。
つまりオリジナルの発音を訳さずにそのまま使う。
仏教の“般若”とか“涅槃”とかも“不翻”である。
意味は次の通り。
1布施(ふせ)……親切
2持戒(じかい)……言行一致
3忍辱(にんにく)……忍耐
4精進(しょうじん)……努力
5禅定(ぜんじょう)……反省
6智慧(ちえ)……修養
この題材はお坊さんがよくお説教の時に取り上げたい題材。
この内容を頼りにいくらでも説明ができるだろう。
私もこのことの説明はお坊さんから何度も受けたが、その中で印象に残った説明が1つあった。
そのお坊さんは密教の大阿闍梨だったのだが、6つの修行方法のうち、 1番大切なものは何かと聞かれたら私は、「忍辱行」を 1つあげるとお答えされた。
それは何故かと言うと、普段生活していく上で1番乗り越えなければならないものに我が身にいろいろ降りかかる災難を耐えなければならない。
さまざまな苦しみや迫害に耐えて修行を続けるのだ。
そのための方法が忍辱行。
これは具体的な作法で言うとお花を飾ること。
お供えすることはもちろんのこと、自分自身の心の中にも美しい花を1輪お供えしてその花のように苦しみの中にきれいに咲かせる。
忍辱行とはそうしたことを指し示すのだと。
仏教に限らず、世の中全般の事について何事も辛抱する事は第一に求められるのかも。
お彼岸の日には、中日はご先祖を敬うが、残りの6日間でこの六波羅蜜を1つずつ修行していくとされているようだ。
正直に言えば、1日で1つの修行法を完成などありえないことで、これは一つ一つじっくり考えて受け止めるべき事と解釈するのが妥当と言える。
大切なことが6つあって、一つ一つについて考えてみよう。
それが私流の解釈となる。
仏教にしか伝わらない独特の死生観
ここから先の話は阿闍梨から法話で聞いた内容。
多分におとぎ話のようでもあって、にわかに信じる信じないのレベルには到達しないが。
実は、人は死ぬと一旦は30分程度気絶してしまうのだそう。
そして、その後目が覚めると、自分自身の死んだ姿を見たり、周りで悲しむ家族を見たりするのだが。
“自分はここにいるよ”と訴えてもそれは周りにいる者には全く届かない。
そうしているうちに、ここにはいられないのだと言う思いが沸き上がって、その場所を離れると大きな街道に出るのだ。
そこは真っ暗闇なのだが、大勢の人が1つの方向に向かって、皆 とぼとぼと歩いている。
その時に、周りが暗くてほとんど何も見えないので前の人の肩に自分の両手を当てて仕方なくついていく感じで歩き続ける。
その時の自分の服装や周りの人の服装は薄い衣1枚。しかも裸足である。
歩いて行く道路は、どうやら切り立った石が敷いてあるらしく、とても痛いのだ。
そして、どこから吹いてくるのかわからないが、骨身に沁みる冷たい風にさらされる。
歩いていくうちにぼんやりと目が慣れてくると、どうやら自分や自分の周りのものは死んだ人間らしいことが少しずつ理解できる。
そしてそのことをさとると、えも言われぬ悲しい気持ちになって皆おいおいと泣いている。
実は、その頃になると 自分が生きていた時に誰だったのかはもう忘れている。
でも、大勢の人間が絶叫して泣きわめいているのだ。
この姿を称して阿鼻叫喚と呼ぶのだそう。
ちなみにみんなが歩いている街道は阿鼻野街道。
やがてそこの先にあるのは大きな広場。
そこには断崖絶壁があって下を覗くと3つの瀬の川が流れている。
この川が別名三途の川。手前の広場はサイの広場(斎の河原)
斎の河原には“奪衣婆(ダツエバ)”と呼ばれる、来ているものを身ぐるみ引き剥がす鬼婆が存在している。
実は、この婆さんは観音様の化身で、この世界に降り立ったときにはこの鬼婆の姿に変わるのだそう。
体1つにならなければ、“あちらの世界には行けないよ”とそう諭すために着ているものを引き剥がすのだ。
ここの三途の川の断崖は、頑張って飛び越えなければならない。
しかしほとんどの場合、飛び越えられずに川の流れの中に飲み込まれてしまうらしい。
飛び越えてあちらの世界にたどり着けば、とりあえずは一息つけるのだが、それが簡単にはできない。
川に落ちて流された先が地獄となる。
実はこの阿鼻野街道での様子を語っていた阿闍梨だが、ぽつりぽつりと話す言葉の中に、妙に実感がこもっていた。
その時に、歩いて泣きわめいている者たちの顔をしげしげ見てみると 知った顔も所々にはいるのだと。
そして少しの間沈黙があってこう語った。
“なるほどなぁ、総理大臣をやるほどの男でも死ねばここへ来るのか…”
この言葉を聞いたときに私は必死で考えた。
一体誰のことなんだ?
そしてすぐに答えは出た。
この前年、総理大臣だった著名な人がくも膜下出血か何かで死亡していたのだ。
実名は決して明かさなかったが、あの雰囲気は実際に目撃した人にしか語れない雰囲気。
かなりのご高齢の阿闍梨だったのだが、明らかに霊的には覚醒しておられたので、一般人が決して見ることのないものを見ていた気がする。
生きて供養を届ける


この時期は1年のうちでもちょうど区切りとなる。
1年の3分の2が過ぎたころ。
ここまで過ごしてきた反省と、残りの3カ月間を有意義に過ごすためのリセットすることはとても良いことと考える。
個人的に仏教徒であることを自覚している私は、普段から先祖にご供養は捧げているが、ここでもう少し丁寧に日々の行いを考えるべきとそう思う。
私に興味深い話をたくさんしてくれた阿闍梨も、もう あちらの世界へ行って久しい。
私が聞き覚えた事柄もチャンスがあれば多くの人に伝えていきたいもの。
お彼岸とはそうした区切りのことに思いを馳せる日でもあるのだ。