くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

情熱を傾けたブラスバンド

 

今週のお題「部活」

中学、高校、大学の一時期、私が所属していたのは吹奏楽部。

その中でもとりわけ情熱を傾けていたのは高校時代。

高校1年の秋ごろから参加したのだが、1番気にいっていたのは顧問の先生が指導していたわけではなかったこと。

すべて、生徒たちが自主的に運営していた。

つまり、毎日の練習とか選曲とか様々な事柄を全て自分たちでやっていたのだ。

気心の知れた仲間内だけで活動するのはとても魅力的に思えた。

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目次

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高校母校 私が卒業してから4代目くらいの校舎

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みんな相当古い楽器を使っていたね

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こんなに種類は多くなかった

 初めて吹奏楽に触れたのは昭和41年、私が13歳の時 つまり中学1年かな? 

中学校に入って最初の音楽のテストで、童謡を確か20曲くらい聴かされて、その曲名を書きなさいと言うもの。。

その時に、私は1曲もわからなかった。

そのことがとんでもない衝撃で、自分がまるで何にもわからない世界があると言うことがとても受け入れがたかったので。

そのことがもとで、夜11時ぐらいから始まっていたテレビの週一回のNHKコンサートホールを毎回欠かさず見ることに。

何にも知らないまま“しょうがないね”ではとても済まされないと思ったので。

このNHK交響楽団の番組を見ることによって、楽器に対する造詣がとても深まった。

自分でもやれないのかな?とその時に思うように。

吹奏楽部に入部しようとしたのはそれがきっかけ。

音楽番組を見ているうちに、知らず知らずにクラシック音楽が自分のお気に入りになっていったことも事実。

私の音楽好きはここから始まった。

さて普通の人よりも数ヶ月遅れて入部した私に与えられた楽器はチューバ。

もちろんテレビで見るような立派なものではない。

古いタイプのB♭管の大バスと呼ばれたもの。

楽器は年代物と言えるくらい古くて、あちこちぶつけてあって べこべこだった記憶がある。

しかし私にとっては、この時の音楽の先生の影響をとても強く受けた。

この先生は、クラシック音楽を自分の家のステレオで聞いたときには必ずそれを感想としてノートに残していた。

大学の時からと言っていたそのノートは大きなバインダーに何冊にもなっていた。

同じ曲を何度も聞いていることもあるのだが、聞くたびに感想は微妙に違うのでそのことを克明に記録するのだそう。

音楽をこのように受け止める人がいるのだと子供ながらにカルチャーショックを受けて、自分自身もテレビの番組ではあるがクラシック音楽の番組が好きで見るようになったこともあり、どの楽器がどんな音を出すのかを毎週勉強していたようなもの。

高校に入ってからが本格的に活動を始めたと言える。

その時にも知り合いがいないことを理由にすぐには入部せずに、その年の秋に入部した。

そこで私が受け持たされた楽器はスーザホン。

この楽器は行進曲用の巨大な渦巻き状の楽器で左の肩に抱える形で持つ。

この楽器も相当古い楽器で、確かメーカーは“東京管楽器”。

もうこんなメーカーなどどこにもないはず。

楽器は記憶にあるのはアルミニウム製で、かなり重さがあったことと、やはり古いせいか掃除も何もしていなかったので何度か中を煙突掃除のように水洗いして使った記憶がある。

いろいろな勉強をしてくると、自分の古い楽器がやっぱり残念に感じるもの。

もっとちゃんとした良い楽器を演奏したいと思うのが人情。

しかし、ほとんどまともに予算もつかないようなクラブ活動では、新しく楽器を更新することなどありえず、私は自前で“マウスピース“のみを気に入ったものを買って使っていた。

確か、修学旅行で東京方面に旅行した時に銀座の”山野楽器“でチューバ用の5000円のマウスピースを買った記憶が。

楽器自体を新調できなければ、せめてマウスピースぐらいは気の利いたものを使おうと。

修学旅行のなけなしの小遣いをはたいて買った記憶が。

仲間内で練習したり、様々な演奏会などに出ていると当然反省会などもあって自分の出している音がいかほどのものなのかを改めて知ることに。

上手い下手は、やはり音色が綺麗かそうでないかで随分とものを言うので。

行進用のスーザホンは演奏会のようなコンサートホールでは全く不向き。

音が前へ出すぎて、でしゃばってしまうのだ。

それゆえに、自分なりに工夫をしてどうすればきれいな納得のいく良い音が出せるのかいつも考えていた覚えがある。

メインは吹奏楽コンクールに出場すること

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母校の練習風景 当然のことながらどなたとも面識は無い

毎年、吹奏楽コンクールが行われていて、最終的には全国大会となる。

高校生の時になんとしても目指していたのは全道優勝。

全道で、ナンバーワンに選ばれれば全国大会への出場権が得られる。

そのために選曲から練習から、生徒たちで皆が思案して方向を決める。

大会で演奏する曲目は2曲。

課題曲と自由曲に分かれて、課題曲はどの出場団体も、皆 必ず演奏。

自由曲がその楽団独自の演奏を許されていて、こちらの方がよりたくさんの時間も割り当てられる。

その出場団体の値打ちは自由曲で決まると言っていい。

オリジナルの吹奏楽用の曲を使うところもあるし、もともとオーケストラ用の曲を吹奏楽に編曲して使うところもある。

今でこそ吹奏楽用のオリジナル曲はたくさんあるが、私が高校生の頃だと吹奏楽専門の作曲家は、大抵 行進曲に特化した作曲家が多かったような気が。

しかし少ないながらも、吹奏楽のための演奏会用の曲を作曲する作曲家も何人かはいた。

高校の頃に演奏した曲目は、”アルフレッドリード“作曲の”サスカッチアンの山々“。

吹奏楽用のアメリカの作曲家が作曲した小品と言っていい。

本当はもっとアピールできる曲をやりたかったのが本音だったが、いかんせん我々が持っていた楽器はどのパートも恐ろしく古くて、まともな性能など発揮できなかった可能性が。

私が担当していた楽器もよその学校からわざわざチューバを借りてきて演奏した。

私が高校3年の時の全道大会。

懐かしい思い出だが、確か札幌でやった記憶がある。

記憶に間違いなければ厚生年金会館でやったはず。

今は劇団四季が専属の劇場として使っていると思った。

いざコンクールで演奏となると普段自分たちがやっている実力の5割程度のものしか発揮できないと思ったほうがいい。

練習以上の事は絶対にできなくて、様々なその時の条件を考えても、例えばステージの明るさとか、演奏したときに自分の音がきちんと耳に入って聞こえてくるかとか、ステージに登らなければわからないことがずいぶんあったりする。

私がこのステージで最初に感じたのは、自分の演奏している音がまったく聞こえなかったこと。

楽譜はすっかり暗譜していたので、見なくても全く平気だったが他の楽器の音と自分の楽器の音のバランスが全く取れないのにはかなり焦った記憶が。

こういうときのために指揮者がいるのだ。

私の友達でもあった指揮担当の者に、目配せをして彼の指示を必死で仰うとした記憶がある。

演奏は何とか無事に終わった記憶が、正直なところあまり記憶には残っていないが、確かいつもよりは少なめの音量で演奏したような記憶が。

どのパートも自分の音が他より飛び出ることを警戒した気がする。

他の楽器の音をとにかくよく聞いて決して自分がでしゃばらないようにと思って演奏したはず。

その結果と言ってはなんだが、当時の私たちの実力からすれば、良い結果が得られたのではなかっただろうか。

確か、銀賞で4位だった記憶がある。

本当は金賞3校の中に入りたかった。

しかし自分たちの持っている楽器とか様々な要素を加味すると、もっとアピールできる曲は選びにくかったと思う。

ここで名誉のために1つ付け加えておくと、翌年、私の一級下の後輩たちは、

”全道優勝“して全国大会に出場している。

一級先輩の私にとっては、とてつもない快挙に思えた。

その時千葉県に住んでいた私は後輩から丁寧な手紙をもらって、ぜひとも全国大会”杉並区の普門館“で行うコンサートを見に来てほしいと。

その頃、関東地方に集まった当時の私たちの何人かの仲間が、前日から結集して飲めや歌えの大騒ぎで、当日のコンサートの時はほぼ全員が徹夜の状態で会場に。

おかげさまでではないが、睡眠不足の私たちはコンサートの最中をほとんど居眠りしてまともに演奏など聞けなかった。

とてつもなくふがいない記憶。

全国大会での思い出は、あの当時全国レベルの出場校の演奏のすごかったこと。

記憶に残っているのは、”秋田県の花輪高校“とか、”奈良の天理高校“とか、この子たちは本当に高校生なのかと思う位の腕前だった。

実は私たちはOBとして、前日の全体練習にも立ち会うことができていた。

当日の演奏は曖昧な記憶しか残っていなかったが、各校が練習する姿を前日に、日がな一日眺めていた記憶が。

その時に感じたのは、中学、高校、大学、一般と各団体が出ていたが、高校の部が1番レベルが高かった気がする。

大学生のレベルももちろん低くはなかったが私的には高校生より劣ると感じた。

全国大会に出てくるような団体は各地区で間違いなく優勝しているので、途中で音を外すようなミスは絶対にしなかったと言える。

とにかく、どのような音楽を奏でるのか、そのことを感じることに終始すれば良いとそんな感じ。

夏休み中は合宿

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当時の地元留萌駅

高校時代の練習は夏休みに入ると合宿と称して、日がな一日練習するために泊まりがけで移動した。

確か2泊3日位でバスをチャーターして行ったと思う。

留萌から北の方へ向かうと、小平町の北のほうに”鬼鹿“と呼ばれる部落がある。

そこの村のお寺を宿泊場として練習していた。

午前中は近くの小学校中学校の体育館などを借りて、パート練習などを行った。

午後からが全体練習。

夏の暑い最中、日がな一日楽器を演奏するのはそれなりに疲労するもの。

毎朝、昼、晩の食事はお寺で用意してくれるまかない。

はっきり言ってかなり粗末なものだったが、とにかく値段が格安だったので毎年そこのお寺を利用した記憶がある。

さすがに合宿のときには顧問の先生なしと言うわけにもいかなかったので、確か先生方が3人ぐらい夏休みがてらついてきた記憶が。

先生は練習に参加することは全くなく、昼間はどうしていたのかな? 

ほとんど顔を合わせることもなかったので私の記憶の中にも全くないと言える。

合宿で若い男女がおよそ50名以上も一堂に介するのでそれなりに楽しかった記憶が。

同じ音楽を志す者として、不思議な連帯感も生まれていたし、様々な議論や討論なども行ったと思う。

年中行事の中でもそれなりに有名な行事だったので、先輩たちが来ることも当然あったし、(差し入れをしてくれたのでそれがとてもうれしかった)他所の学校の吹奏楽の顧問の先生がわざわざ訪問してくれることもあった。

音楽三昧の三日間だった記憶が。

様々なイベントにも参加

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母校の演奏会 初めて拝見かっこいいね

 それなりに有名な吹奏楽団だったと思う。

あちこちの演奏会などイベントに声をかけていただいて出場したことが。

田舎町ではあったが、演奏会、街中の行進など夏の間だけは何回か出させていただいた記憶がある。

地元では、港祭りがあってその時の行進が記憶に残る。

また旭川の6月に行われる音楽大行進も距離が長かったので大変だった記憶が。

それ以外は学校祭でもかなり長い時間の演奏枠があったので、それなりに準備をした記憶が。

メインはなんといっても吹奏楽コンクール。

地区大会で敗退する事は絶対に無いので、とりあえず全道大会の優勝が目標だったと思う。

繰り返し何度も何度も練習をする。

体の中に演奏がすっかり染み込むまで練習し続けると、そこからさらに見えてくるものがあるのだ。

それは全体のバランスだったかもしれない。

指揮者の指示は常に気にしていたが、他の楽器が出している音をとにかく注意深く聞くのだ。

その中で自分の音がきちんと溶け込んでいるかどうかを判断する。 

【BROOK'S かんたん ぬか美人】

まとめ

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今は全てが懐かしい思い出

最近インターネットでYouTubeをよく見るがその中で京都の”橘高校“が凄いと思った。

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京都橘高校

この子たちの演奏を初めて見て、私がやっていたこととは全くレベルが違うすごいことをしているので、正直なところ驚愕以外の何物でもない。

パフォーマンスをしながら演奏するのでレベルは極めて高いと言えるだろう。

私が高校生の頃は、行進といってもそれほどのハイレベルなものではなく、せいぜい

 4人隊列で更新していたものがそのままUターンする位の方法しか駆使できていなかったと思う。

演奏しながらダンスをするなどとてもありえない。

演奏すること以上に音楽や踊りに対するセンスが求められている。

私の母校の後輩たち(僭越ながら)もどうやらマーチングバンドをやるようだ。

正直言うといちど見てみたい気がする。

高校生の頃はとにかく音楽に関わることが嬉しくて嬉しくて。

吹奏楽が自分自身の表現手段となっていたことも大変な喜びだったと思う。

もうおよそ半世紀が過ぎてしまって、当時の記憶は懐かしさの中に埋もれているが。

この記憶を頼りにまた音楽への愛情が湧いてくることを実感できる。

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