最近、またテレビで映画を見ることが多くなって、この間からはバック・トゥ・ザ・フューチャーの三部作をしっかりと見せてもらった。
多分かなりの回数見ていると思うが、久しぶりに見るとなんとなく新しく発見できることもあって、映画好きにはさらに好感度アップ。
スピルバーグ肝いりのSF作品の触れ込みだったけど、改めて見てみるとSF的な色彩はもちろんあるけれど、どちらかと言えば人生訓のような意味がとても強い。
原題 「未来へ帰る 」は思わせぶりな題名だけど、終始一貫して語られるのは未来を切り開くのは自分自身であること。
たとえタイムマシンがあったとしても、未来は何も決まってはいないんだと。
不思議なメッセージが作品からは伝わってくる。
目次
三部作の形はとっているが物語は1つのストーリー
最初に物語が始まったのは1985年。
実はそこから1955年にマーティーが送り込まれることから物語は出発。
この時点で、30年さかのぼることになるが、そこで自分の父親と母親がうまく出会えるように歴史に働きかける必要がある設定で出発。
さてタイムマシンは車デロリアンの形をとっている。
座席の後ろのほうに次元転移装置が組み込まれていて、そこに莫大なエネルギーの電流を流すことによって時間を超越する。
車自体も止まっていた状態では時限転移できないので 時速140km/hまで加速する必要が。
最初のデロリアンはそのためのエネルギーをブラックマーケットで購入したプルトニウムに頼っていた。
実は、この辺から物語のきっかけとなるケチがつき始めるのだ。
物語の123はストーリー上、連続している。
1955年に送り込まれたマーティーはその時代の若き日のドグを頼って、自分を未来に送り返してもらうのだが、実は一旦 過去に 現代の自分が滞在したことによる弊害が発生してしまって、さらにまた過去や未来に行かなければならないことに。
特にパート2で描かれたエピソードで時間旅行の弊害がより強く描かれていたと思う。
パート2で一旦 未来や現代がこじれてしまう設定。
そのために再び未来へ行き、そして過去へ戻り現代へ戻る設定だが、話は過去の自分と現在の自分が同時に存在したりして、明らかに時間のパラドックスを犯すことに。
1955年のエピソードで現代に戻れるはずだったのだが、そう、あの時には雷が落ちる設定だったが、雷は1カ所だけではなく、別の場所にいた空中に浮かぶデロリアンにも落雷するのだ。
そのために、デロリアンは1855年に飛ばされることに。
マーティーは1955年に取り残されたままで、仕方なく最初の物語の最後のシーンに戻ってしまう。
ストーリーとしての整合性は保たれてはいるが、物語は相当入り組んでいて、1話から2話目に移るまでに、すでに2話目で語られたエピソードを全て終了していることに。
また、3話目に入るときには、1855年の物語となる。
三部作のうちで、3話目が全体のまとめの意味もあって物語がよりきちんと結論付けられるように配慮されていた。
描く物語の最中には、その都度、タイムマシンのトラブルが起こって、その時代の科学的なアイテムを巧妙に取り入れることによって、時間旅行を可能にしていた。
特に3話目で採用された蒸気汽関の話はなかなかユニーク。
3話目の最初でデロリアンの燃料が全て喪失してしまう設定。
この年代ではガソリンを入手することなど不可能なので、結果、蒸気汽関と既存のレールの特性を生かして時速140km/hまで加速する手段を得るのだ。
この3話の物語の中に登場してくる登場人物は、各時代ともそれぞれ同じ俳優がメイクでキャラクターを作って演じていた。
特にうまさを感じたのは“トーマスFウィルソン”。
彼は“ビフタネン”の役柄や “ビュフォードタネン”の役を器用に演じ分けていたと思う。
実際はかなり若い俳優のはず。
パート2では年老いた役をメイクで作っていた。
ある意味、俳優たちも各時系列の整合性を保つためにかなり勉強したに違いない。
同じ時間の中に戻って来れるとは限らず、過去で何か別の要素が加われば未来は大きく変わってしまう。
そのような時間のパラドックスをうまい具合に利用して物語を作っていた。
過去へ飛ぶこと、未来へ飛ぶことの意味
タイムマシンは時間の中を自由に飛ぶことができるが、ルールとして歴史を変えてはいけない設定となっている。
時間旅行はスティーブンホーキングの話によればありえないことと断定された。
宇宙物理学を駆使する彼の理屈で言えば、我々が今いる地球や太陽系は猛烈なスピードで移動しており、 1時間前に戻ろうとすれば、とてつもない距離を移動しなければならなくなるのだ。
それが年単位となれば、何をどのように持ってきても移動する事は不可能と言える。
今、我々が持ち合わせている時間や空間の概念では到底移動はかなわない。
次元をねじ曲げてたわませるような形で繋げれば可能かもしれないが、そんな都合の良いようにはいかない。
ホーキング博士はそこにタイムマシンの矛盾を見出していた。
基本的には過去に起こった事柄の結果として今現在があり、それが未来につながる。
“バックトゥーザフィーチャー”で語られたのは単純にその点から物語を発生させている。
時間を移動したことによって本来ありえない、過去への変更がなされてしまった。
物語はその変更をもとに戻そうとするストーリーでできている。
映画自体は、娯楽映画として手に汗握るシーンもあり、また各ストーリーの中にロマンスなどもちりばめられていて、何よりも時代が変わった時に同じ登場人物がメイクを変えて演じているあたりは、とてもユニークで面白かった。
全体の構想を練ったときに話を3話に分けてはみたが、結果としてはトータルで1つのストーリーとしてまとまることに。
最後に頼みの綱だったデロリアンは1985年に戻った段階で破壊されてしまう。
しかしその破壊の数分後、未来でまた新たなタイムマシンを作ったドグ家族が SLタイプのマシンに乗ってやってくるのだ。
空を飛ぶタイプなんだからもっと他にとも思ってみたが、デザインとしてあのスタイルを選んだのはやはり、アメリカ大陸の冒険旅行の雰囲気を出したかったからかな。
物語がすべて終わった段階では、マーティーも精神的に成長している。
確かに三部作で語られたエピソードを全て経験してきているわけだから、自分自身の欠点もよく理解し、今をどのように振る舞えば良いのかをよく理解できるようになったと。
未来を切り開くのは自分自身の力
物語の中で時々出てくる写真。
その中にはその時に起こった歴史的な事実が反映されていることに。
エピソードがだんだん進むうちに、写真の中の様々な景色は状況に応じて変化していく。
目の前にある過去の写真が少しずつ変化をしたり、全く別なものになったりする設定がこの物語のスタンス。
つまり、自分自身が望んで努力した結果によって、未来はいかようにも変わるのだと。
そして運命は自分で切り開くべきものだから未来は全て白紙だと。
この未来に対する期待感と、流動感。
バック・トゥ・ザ・フューチャーの作品のテーマはここにあると言える。
あれだけ大掛かりな設定にしておきながら、実際に語られる様々なテーマは単純明快。
日本人の私から見れば、「未来の事はくよくよせずに今を一生懸命生きよう」
物語はそのように映った。
しかし、もう何十年語ったにもかかわらず、新鮮な物語で、見始めるとはまってしまう。
新作が作られる可能性は?
この映像を見るとドグが一番、歳をとった気がする。
しかしほかならぬ彼が、もし次の作品が撮影されるならぜひ呼んでほしいと訴えたそうだ。
彼にとっても、それだけ思い入れのある作品だったのだろう。
映画史の中でも特に歴史に残る名作と言える。
娯楽映画の楽しい要素が満載で、作品を見たならば必ず引き込まれて様々な驚きを覚えるはず。
次回作が作られる話は伝わっては来ないが、この続きが作られてもそれなりに楽しめるはず。
あまり期待をするわけにはいかないが、多少なりとも希望を持ってしまうところが映画マニアの習性。