くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

今日お参りした留萌神社を調べてみたら?

 

ライフワークとして、様々な神社、またお寺など戦没者等のご供養をされているところをめぐってお参りをする。

今日は、そうした目的でほんの何日か前に案内があったので留萌まで車を飛ばしてお参りに。

この留萌神社の歴史はとても古くて、広島県の厳島神社の御祭神の御分霊をお祭りしている。

広く知られている、“北海道は明治以降”との認識は、必ずしも北海道全体に当てはまるわけではなさそう。

留萌神社がこの地にやってきたのは1786年、天明年間。

この時すでに、内地からの移住者が北海道のこの地に来たことに。

お名前.com

目次

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神社本殿前の表札

ウェブでふるさと納税(受付中)

もともとは庄内藩の所有地

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何度か災害にあって複数回移動 その後現在の位置に

調べてみるとこの神社はインターネットでの検索がとても楽。

北海道神社庁の公式ページにもしっかり載っている。

hokkaidojinjacho.jp

由来

天明6年(1786)当地支配人栖原彦右衛門が、当市58番地に広島県安芸の厳島神社の御分霊を奉斎したのが創祀と伝わる。万延元年(1860)留萌郡は床内藩の領地となり、明治3年山口藩の支配地となったが、営繕・祭祀の諸費は一切藩費をもって支弁されていたと伝えられている。明治9年、村社厳島神社と公称し、明治29年郷社となる。初めの境内は海岸に近く、その上低地であったので、海が荒れたり留萌川が氾濫出水の際は社内に浸水があったため、明治31年当市留萌通りに遷座。同39年には神饌幣帛料供進神社に指定された。大正14年に現境内に遷座し、昭和15年県社となり、現社名に変更した。昭和21年に宗教法人となった。

 現在の建物は大正14年に建立。

94年が経過している。

およそ100年経過した建物らしく、かなり古さは目立つのだが、何度か改修工事がされたらしい様子。

今日、参拝の時に正殿に入れさせていただいたが、中はすこぶる立派。

手前と奥の内宮とに分かれており、かなり大きな段差が1段。

奥の方には左右に祭神とおぼしき神様が 2体 お祀りされていて、荘厳な雰囲気を醸し出している。

正殿参拝では、正式に入堂太鼓から始まるので、巨大な太鼓からの音は心をキリッと引き締める。

宮司さんのお祓いを受けた後、玉串を奉天。

お神酒とおさがりをいただいて参拝は終了となる。

宮司さんが色々と案内してくれるので、こちらもかしこまってあちらこちらを覗き込むことに。

普通、神社にお参りしても、正殿の中までは入ることにはならない。

そこに入るためには、それなりの手続きが必要。

一般の人ならば、“お宮参り”とか“結婚式”ならば中で儀式を行うので正殿参拝は可能かなと。

今日はすでに落ち葉が舞う中で、しかも結構な雨降りの中での参拝だったが、荘厳な雰囲気は最後まで失われることなく、厳かにお参りさせていただけた。

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既にご奉仕で1度、境内を清掃させていただいている

実は、この落ち葉も景色の中では雰囲気を高める大切なアイテムだと今日気がついた。 

【BROOK'S かんたん ぬか美人】

太平洋戦争を抜きに語ることはできない

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多くの戦争犠牲者を祀る

かなりの数の戦争犠牲者がいる。

特に終戦後、樺太からの引き揚げ者船が日本海沿岸で3隻沈められた。 

3隻とも留萌の近郊 で当時のソ連の潜水艦によって攻撃を受けたのだ。

この土地では“3船受難事件”としてよく知られている。

そのようなもあってこの近所の神社でも、犠牲者を名簿でお弔いしているところは多い。

 

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犠牲者の名簿左右に分かれて奉安されている

これらの慰霊碑は忠魂碑に向かって建立されている。 

 普段、地元の人間でもそれほど多くの参拝者があるとは思えないが、折に触れて時々ぐらいはお参りするべきだろう。

どうしても戦争の記憶とは切り離すことができないのだ。

北 北海道の名刹

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7月に行われる例大祭のときの様子

留萌市の7月は 神社の例大祭も含めて港祭りその他イベントで盛りだくさん。

実は、この時は街を上げてお祭りに参加することになる。

思い出してみたら高校時代の私もブラスバンドでこの例大祭の行進に参加した記憶が。

ちょうど真夏の最中なので、北海道とは言え、真夏の暑い最中の行事で、かなり汗をかいて日に焼けた記憶が。

 写真を見ていて気がついたが、こんなにも売店があったとは知らなかった。

 パレードが終わればとっとと学校に帰ってしまっていたので。

現在の神社の位置は街中の小高い山の中腹よりもちょっと上ぐらいに位置する。

この神社の下に街が広がっているのだが、この山を下った1番下にバス停があって、そこの名前が“神社下”。

留萌に住む者ならば知らぬ者のない土地の名前と言える。

ちなみに、留萌市は人口22,000人ほどの小さい街だが、街中のレイアウトはかなり複雑に入り組んでいる。

斜めに交差する道路がとても多く、土地勘のある人でなければおそらく迷うのではないか。

京都や、東京の銀座のような碁盤の目とはまるで条件が違う。

東西南北の道路が平行して走っているわけではないので、どこかで別れたりどこかで交差したりで、車で運転しても道を知らなければ大変だろう。

また、街の中は思いのほか坂道が多く、冬は運転手泣かせと言える。

神社下のバス停のところから山の頂上まで駆け抜ける道路があるのだが、冬は途中で止まったら二度と前を向いて走っていくことはできないかも。

道路は滑りまくるし、傾斜がきついので。

この留萌で18歳の時に車の免許を取った私は、必然的に坂道発進は鍛えられたと思う。

私自身の思い出として

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留萌市黄金崎の夕日

ここは絵になる景色がいっぱいあるが、なんといっても1番にお勧めするのは夕日の美しさ。

以前もブログで紹介したが、私の美意識の原点がこの景色と言える。

夕暮れ時のひとときの景色だが、この色合いといい、打ち寄せる波の音といい、これ以上の美しさはそうお目に描かれるものではないだろう。

ただし、私が留萌のこの辺の土地を眺めて居られたのは高校の時の3年間だけだと言える。

中学までは留萌よりもさらに北に位置する小さな海岸沿いの町で暮らしていたので、その街から他所へ出かけることなどほとんどなかった。

高校の3年間が留萌の街の中をあちこち移動した時期。

毎年お墓参りでここは通過だけするが、年々景色が変わる気がする。

かつては大きな建物などはほとんどなかったが、今はスーパーマーケットや学校、病院などあの時ただの荒れ野原だった場所に大きな建築物が。

考えてみればもう半世紀も経つのだ。

変わるのは当然と言える。

しかし、この何年間か、ご縁で留萌の近くの様々な神社や慰霊碑にお参りをさせていただける機会が増えてきたと思う。

私にとっては願ってもない良い機会。

冬はとても移動しにくいが、また来年など、ぜひともこのようなチャンスが与えられることを祈ってやまない。

「骨盤ウォーカーベルト」