くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

今更めんどくさいんだけど 知性とか感性とか

 

巷には様々な情報ソースが溢れていて、言ってみればよりどりみどり。

なんとなく生きているので、どれでも気に入ったもの、面白そうなものを選んでみるのが常。

その時に、何が基準かなと?

その時その時の気分で興味の湧く対象は刻々変化。

巷でよく言われる、知性と感性と、どう違ってお互いどういう働きをしているのだろう。

面倒くさがらずに考えてみた結果が。

目次

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知性と感性はアプローチの方法

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知性と感性を切り離す事はできなさそう

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思いはこんな景色の中に溶け込む

よく知的なアプローチとか言うでしょう。

どういったことを根拠にそう思うのだろうか。

例えば具体例などを挙げて、数字的なデータをもとに考えを深めていく。

こういった事は人間だけではなく、今流行の“AI”なんかかなり得意なんじゃないか。

人間の知性は、機械のものとは明らかに異なる働きがあると言える。

それはざっくばらんに言えば“インスピレーション”

機械はあくまでもプログラムによるものなので、与えられたデータの中から分析をし組み立てていくが、人間はどうだろう。

私たちは知的に考えれば考えるほどその所々の過程で、いくつかのひらめきとかまたなにがしかの思いとかが関わってきはしないか 。

また知的に突き詰めたことの最終的な到達地点では、必ず“感覚”でオーケーサインが必要となる。

結果が出てみたものの、いまひとつぴんとこない、納得できない、はたまた気に入らないなど。

それとは逆に出てきた結果は明らかに都合の悪いものなんだが、感覚ではこれが自分にとって1番納得できるみたいな。

これは男女の中でよく起こる話。

例えば、男女が好きになるときには、お互いに相性と言うものがある。

周りの人がどんなにふさわしい相手だなと思っても、男女のどちらかがなんとなく虫がすかない、なんて事はよく聞く話ではないか。

それとは逆に決して付き合ってはいけない相手にもかかわらず、のめり込んでどつぼにはまってしまうような関係。

これらは感性が知性をねじ曲げてしまうことだと言える。

こう考えてみると私たちは賢明な判断とか行動なんてできない生き物なんじゃないか。

そう思ってしまわないでもない。

私は知性も感性も一見、独立して存在しているように見えて、2つのものは心の中では1つに溶け合っていて、単独でどちらかだけを取り出す事はできないと思うのだ。

そう思ってしまえば、自分自身をうまく手なづけることも可能。

わかりやすい方を選べばいいとそう解釈してしまいたい。

知性の究極とされる科学者は研ぎ澄まされた感性の持ち主

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ニュートンとアインシュタイン

ニュートンは言わずと知れた万有引力の法則を発見している。

また有名なところでは光が七色に分かれることを証明してみせた。

これら2つの業績は私に言わせれば知性の働きによるものではなさそう。

感性がこれらの原理原則に導いていったと思われるから。

りんごが木から落ちてそれが発見につながったのは感性がどれだけ研ぎ澄まされていたか。 

また光の七色はプリズムで分析して発見したとされているが、どんなに頑張ったってせいぜい5色ぐらいしかわからないはず。

大体7番目の紫外線は可視光線ではない。

にもかかわらず彼は七色を主張した。

それは彼の心の中にあったキリスト教的精神が大きく影響したはず。

光は言ってみれば神の領域の代物なので、5とか6とかの中途半端な数字なわけがないと彼は考えた節がある。

キリスト教で言うところの神の数字は7。

目視で確認できないだけでその構成要素は7に違いないと彼は考えたと思う。

近代科学の元になったニュートンでも、その精神的な構造は感覚的なものに大いに頼っていたはずだ。

私が個人的に思うニュートンの業績は、知性の側で論ずるならば“数学の微分積分”をきちんと体系づけたことだろう。

彼は数学の分野での業績が絶大だと思う次第。

近代の物理学ではアインシュタインがかなり大きな業績を上げたが、彼の提唱している相対性理論。

この理論には決してゆずれない原理がある。

それは光の速度はあらゆる場合において絶対に不動だと論じている点。

光つまり方程式ではCで表される。

この場合は速度と言っていいだろう。

これを普遍のものとして解釈することで相対性理論は成り立っている。

ただし、これらはあくまでも暫定真理なので、他の理論が出てきたときに覆される可能性も全くゼロとは言えない。

それが証拠に同じ物理学者のホーキングは相対性理論に欠陥があることを証明してみせている。

それは宇宙の始まりビックバンとかブラックホールのような極限の状態を論ずるときに相対性理論の方程式を使っても0と∞がたくさん入ってしまうので数式として成立しないと言うもの。

この辺の理屈は私のおつむではちと理解不能なのだが。

しかしアインシュタインもホーキングもその姿勢を支えていたのは感性。

“ひょっとしたら”とか、“あるいは”とかそういったものが知的な作業を進めていく上で随所に出現したと言える。

アインシュタインは自分自身の感覚にはかなりの自信を持っていたはず。

しかし、自分自身の知的な作業に関しては自分自身の力が及ばない部分を理解していたようなのだ。

彼は物理学では避けて通れない複雑な数式の計算をするために専門の数学者を雇っていたと聞く。

アインシュタインは子供の頃、学校の数学の先生が嫌いで小学校6年の時に先生が嫌いなことを理由に学校を退学している。

本来、基礎を積み上げる部分で、自分自身に不足のものがあると自覚していた節が。

ニュートンとアインシュタインを例に挙げたが、他にも知性の側に立つ人間も感性の側に立つであろう人間も、その分野だけで心が成り立っていたわけではないだろう。

知性も感性も全く同じに心の中で機能していたはずだ。 

思うにこの手の議論は東洋の考え方がマッチしている

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知性も感性も心の中で1つに溶け合う

東洋的な考え方をすると、知性とか感性とかといった言い方はあまりしない 。

般若心経で言うところの、

色 受 想 行 識 

 人という存在を上の5つの分野に振り分けている。

よく知られている“色即是空空即是色”はこの色について語った部分。

この後に“受想行識亦複如是”と続く。

  • 受は暑いとか寒いとかの感覚
  • 想は受によって発生する思い
  • 行は前の2つを受けた行動
  • 識は前の3つのことを受けてどのように受け止めるか(心の中で)

仏教の中でも基本とされる般若心経の中では、知性とか感性とかは呼ばない 。

それぞれは働きとして認識される。

さらに、これらの5つの要素は分類こそできても、バラバラに1つずつ取り出す事は不可能ともしている。

理由があって、全部1つに溶け合っているから。

そしてここに物事が存在する根本原理があると説いている教え。

私たちが昔から習ってきたものとは全く別の考え方かもしれないが、なんとなく、本当になんとなく感覚でこの思想を受け入れてきたのかもしれない。 

「骨盤ウォーカーベルト」

般若心経は知性からのアプローチ

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般若心経 かなりわかりやすい説明

般若心経はこれで全文。

かなり短いお経と言えるだろう。

仏教の入門書の中では最もベーシックで分かりやすいし、あまり宗旨宗派を問わないところも このお経の優れた部分。

様々な意訳があるが、代表的なもの1つ

般若心経 現代語超訳

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』

この教えは、お釈迦さんを覚らせた仏さまがおっしゃったもので、心が豊かに、安らかになるための素晴らしい智慧のエッセンスについてのものなんだ。

観音さまっていう、とっても心のバランスがとれた仏さまがいるんだけど、その仏さまが、ある時、心静かに物事を観察していたら、心に何のわだかまりもなくなったんだ。そして、この世の中には何一つとして、永遠不滅で、変わらないもは無いっていうことがわかったんだ。

舎利子君、いいかい。物事は、その働きも、存在も、いろいろな条件が重なってそうなっているんだ。だから、その条件が変われば、結果も変わってくる。その条件は刻々と変化しているんだ。世の中はすべてそういう具合になっているんだ。

舎利子君、よくお聞きよ。色々な条件の中には自分の努力というのもあるけど、それだけじゃないんだ。ほかにも色々な、私たちには想像もつかないような条件が入り込んでいるんだ。

どんなものでも無数の条件でそこにあるのだから、何もないところから突然何かが出現するっていうこともないし、いきなり何にも無くなってしまうということもないっていうことさ。無くなるにしても何かの条件があるはずだからね。

物事は一見増えたり減ったりすることがあるけど、よく考えてみれば、ある場所から別の所へ移っただけなんだ。実質は増えても減ってもいないんだよ。

ちょっとびっくりするかもしれないけど、物だってさまざま条件によって変化しているし、私たちが頭で考えることだって、常に変化しているんだ。その日の気分っていうのがあるだろう。それと同じだよ。いつも自分は同じだと思っていたって、違っているんだ。なかなかそのことに気がつかないことが多いけどね。

よく人は年はとりたくないとか死にたくないって言うけど、じゃ年を取るって何だろう。死んじゃうってどういうことなんだろう。年を取るっていうのはある意味では成長するっていうことだろう。死にたくないっていうけど、それは死んだ後のことがわからないからだろう。じゃ私たちが生まれる前って何だったんだろう。きっと生まれる前と死んだ後は同じだよ。

私たちはこだわり過ぎるんだ。色々なことにね。こだわるっていうことは、そこにじっとしているっていうことだ。じっとしていたんじゃ他の素晴らしい世界を知ることもできないんじゃないかな。

仏さまたちはみんな、物事やその働きを心静かに観察して、そこから共通の法則を見つけ出したんだ。それを見つけ出すと、心が自由自在になるんだ。何かを恐がることもないし、現実を無視して「こうであったらいいのになあ」なんて夢見るようなことも考えないんだ。

こういう考え方というか、感性を身につけるのに、とっても素晴らしい呪文があるんだ。それはね、

ギャーテー・ギャーテー・ハーラーギャーテー・ハラソーギャーテー・ボージー・ソワカっていう呪文さ。

 実は、他にもいろいろな訳文を知っているが、ネットで出てきたこの文章を紹介するのが最も手っ取り早いと思ったので。

多分今の私の気分的なものは、この文章の中に表現されている気がする。

手前味噌になるが、般若心経は言ってみればキリスト教の賛美歌のようなもの。

毎日唱えて暗記する位までになると理屈抜きに心に染みてくる部分があると言える。

私は30歳になるちょっと前に始めたので、一体どれぐらい唱えただろうか。

結論から言うと、さしたる感動もなくお唱えしてきたと思う。

しかし継続と言うのはすごい力を発揮して、そのすごい力は普段自覚することもないんだよね。

ある時ふとぴんとくるものがある。

それが今の私の原動力になっている可能性が。

これからもまた、唱え続ける。

毎日のルーティーンで、白状すると感動があるわけでもないが。

【BROOK'S かんたん ぬか美人】