もう亡くなってから20年以上が立つ。
プロレスラージャイアント馬場。
昭和生まれの人で彼を知らない人はいないだろう。
普通はプロレスラーとして有名だが、彼は様々な顔を持っていた。
有名なところでは彼はもともとは巨人軍のプロ野球選手だった。
そして巨人軍を退団したときには相撲界からもお声がかかったらしい。
私は小学生の頃からジャイアント馬場を知っている。
今でもYouTubeで時々過去の映像を見て楽しんでいるのだ。
目次
プロ野球選手からレスリング界へ
子供の頃から野球が大好きで少年野球の名選手だった。
友達が用意してくれた彼専用のスパイクシューズを得て、晴れてプロ野球選手として巨人軍に入団。
もっとも彼には持病があったようで、それは19歳で発覚した脳腫瘍。
彼は上を見上げたときに視力を失うことがたまにあった。
それは脳下垂体にできた腫瘍が原因だったとのこと。
危険な手術だったが、無事後遺症もなく終わったようだ。
また身長2メートルを超える彼の体格はこれも脳下垂体の成長ホルモンが通常よりも多く出てしまうため。
事実かどうかはわからないが彼は結婚したときに自分自身のこの病気を気にして子供を作らないようにしていた話もあったようだ。
彼の家族は兄弟も含めて彼だけが大きな体をしている。
また野球選手の時代には左の肘に風呂場で大怪我をしてそのまま野球では通用しない体になってしまったのだ。
もともとは右投げ右打ちのピッチャーとして将来を嘱望されていたようなのだが。
野球選手をあきらめなければならなかった時に周りからはいろいろ声をかけられたらしい。
相撲界からもラブコールがあったようだが、馬場選手はさすがに相撲には行くつもりはなかったようだ。
たまたまテレビで見かけた力道山の試合を見て、プロレスに興味を持ち始めたようだ。
力道山の前で、入門のための試験としてスクワットを何百回かやってみろと言うことに。
難なくこなせたのでそのまま入門が許されたようだ。
ちなみにこれも本人から聞いた話だが、ヒンズースクワットと呼ばれる足の屈伸運動。
これを一日に3000回やるらしい。
およそ3時間かかる。
そして足元にはヒシャクですくえるほどの汗の水たまりができるとも言っていた。
そういった鬼のような特訓でプロレスラー向きの体は作られていったのだ。
アメリカ遠征時代は大成功している
アメリカ遠征時代は悪役レスラーとして鳴らしていた。
初めてプロレスを見たときに40過ぎのおっさんたちが普通にレスラーとして活躍しているのを見て大変な驚きを覚えたとも述べている。
普通一流のスポーツ選手ならば30歳を過ぎれば大体は現役を引退しなければならないが。
プロレスに関してはそういった事はなかった。
プロレスは典型的なエンターテイメントで、どれだけお客さんに楽しんでもらえるかでその値打ちが決まる。
アメリカ遠征時代から馬場選手はそのカラクリをよく理解していたようだ。
この当時、一緒に活躍していた選手たちからも非常にウケが良かった。
とにかく頭の良い選手で覚えたことをきちんとこなしていた。
彼は基本的には悪役(ヒール)として出場していたが、アメリカ人観客の中でも彼のファンは多かったと聞いている。
遠征は大成功していたのだが、日本では師匠の力道山が不慮の事故で亡くなる事態が持ち上がっていた。
そのことを知ってアメリカに残るべきか日本に戻るべきか悩んだ末、日本に戻ることに。
もしアメリカに残れば、10年契約で当時の日本円で年間1億円の報酬を提示されていたようだ。
とんでもない金額だと言えるだろう。
この時日本のプロ野球選手のようなスポーツ選手でどのくらいの報酬をもらっていただろうか。
それを考えてもアメリカ時代のジャイアント馬場がどれほどの人気者だったのかがよくわかる。
奥様とは二人三脚だった
馬場選手が17歳、奥さんの元子さんが15歳の時に2人は知り合っている。
もちろんプロ野球選手の時代。
馬場選手は高校には行かずにすぐにプロテストを受けて巨人軍に入団した。
以来この2人は変わることなく生涯添い遂げた。
後年、テレビの特集番組などでも夫婦2人の様子がよく見られていたので、記憶にある人も多いのでは。
馬場選手は奥様のことを元子と呼び捨てにしていたね。
奥様は夫のことをなぜか馬場さんと呼んでいた。
この夫婦は、奥様が内助の功に徹していた関係でも知られる。
馬場選手が立ち上げた全日本プロレスは細々した事は全て奥様が担当していた。
本当は馬場選手は38歳で引退をして、ハワイで奥様とのんびり暮らしたかったようだ。
しかしその願いはテレビ放映権などが絡んで、結局は反故にされてしまう。
アントニオ猪木との持ち味の差が違うテレビ局の放映となって別々の団体を組織することになっていた。
アントニオ猪木はどちらかと言えばプロレスの中でもガチで戦うことをモットーにしていた。
したがって、異種格闘技試合も猪木は盛んに画策して行っていたね。
ジャイアント馬場にも猪木から挑戦状が届いたらしいが、馬場選手は決して受けようとはしなかった。
戦えば必ずどちらかが抱えているテレビ局その他で損害を被ることになるから。
ジャイアント馬場はあくまでもプロモートとしてのプロレスを意識していた。
利益のないことや、お客さんにアピールできないような事態は絶対に引き受けなかったようだ。
ジャイアント馬場は日本人選手だけでなく外国人選手からも広く慕われていた。
それはすなわちジャイアント馬場が日本風の義理と人情で選手たちを手厚くもてなしていたから。
外国人選手たちも日本で馬場の所ならば安心して戦えるとこぞって来日するように。
リングの上では死闘を繰り広げているように見えるが、リングを離れれば皆ジャイアント馬場を尊敬し、朗らかに付き合っていたようだ。
ジャイアント馬場がある程度年行ってからは、外国人選手が馬場選手とタッグを組むことも多く見られるように。
特にジャイアント馬場と仲が良かった外国人レスラーは
アンドレザジャイアント
スタンハンセン
アブドラザブッチャー
ブルーノサンマルチノ
ザデストロイヤー
ドリーファンクジュニア
ジンキニスキー
数え上げれば枚挙に暇がない。
また日本人選手からも当然のごとく慕われていた。
有名なところではラッシャー木村。
また、ジャンボ鶴田は途中全日本プロレスを休んで病気療養のために外国へ出かけたのだが、試合に出ていないにもかかわらず馬場はずっと給料を振り込み続けていたと聞く。
馬場が亡くなったときには、外国人選手も多数来日して葬式に出席していた。
思い出の中に
ジャイアント馬場は病気をしたり、怪我をしたりで人生に何度か岐路が訪れていた。
その都度そばに寄り添っていたのは奥様。
この奥様がテレビで見かけるようになったのは本当に晩年の10年ぐらいじゃなかろうか。
身の回りの世話からプロレス団体の様々な雑用係りを奥様が一手に引き受けていた。
また当時ジャイアント馬場とタッグを組んでいたアントニオ猪木。
こちらのBI砲も有名。
実は今回改めて調べ直してわかったことがある。
代名詞のように言われていた16文。
これは言わずと知れた足のサイズなのだが、実際は16文ではなかったと言ったらどう思うだろうか。
ジャイアント馬場の足のサイズはおよそ34センチ。
文数に直すと14文。
アメリカ遠征時代にジャイアント馬場が自分用に手に入れたリングシューズのサイズが16だったらしい。
そのことが一人歩きして16文が代名詞になった。
体重も公称では135Kgだが、晩年はもう少し軽かったかも。
全盛期の時だと145Kgとされていた。
馬場選手は弟子たちを指導する時にも、食事の作法から挨拶からとりわけ厳しかったようだ。
レスラーとしての指導よりも人との関わり合いについて厳しくしつけることを心がけていたらしい。
最近のプロレスは私はほとんど見ることがない。
昔のようなロマンを感じないせいもあるし、YouTubeでかつての動画を見たほうがはるかに面白いので。
その中でもジャイアント馬場の存在は決して外せるものではない。
私の中では懐かしさと共に、思い出としてよみがえってくる。