終戦記念日も近いし、私たち日本人にとっては決して忘れてはいけない事柄が太平洋戦争の様々なエピソード。
とにかくあまりにも大勢の人が亡くなりすぎている。
その中には超有名な歴史に出てくるような人たちや、何もない一般市民に至るまで
およそ310万人の犠牲者。
戦争を起こした側の有名人として記憶に残るのは山本五十六だが、彼は活躍していた当初は初めから戦争反対の立場を貫いていた。
改めてそのことに注目してみたい。
目次
新潟県長岡市出身
長岡藩出身の高野家に生まれるが、早くに両親は他界して、彼自身は兵学校に進む。
海軍に勤めることになるが、31歳の時に山本家を相続することに。
それ以降は山本姓を名乗っている。
山本五十六の経歴の中で特筆すべきは、日露戦争の時
東郷平八郎が導いたバルチック艦隊との戦いに参戦していること。
その時に左手指を著しく損傷する大怪我を負っている。
左手の不自由な山本で有名だったようだ。
彼は若い頃からキリスト教への造詣が深く、座右にはいつも聖書を置いていたと聞いている。
ひょっとしたらあまり知られてはいないがキリスト教徒だった可能性も。
結婚も遅い。
35歳くらいの時に、見合いで知り合った奥さんと結婚している。
アメリカを始め欧米を視察した経験が
この時代の軍人にはとても珍しいことだが、外遊経験を持っている。
それは主にアメリカとイギリス。
特にアメリカ在住期間が長く英会話も特訓して勉強していた。
特にアメリカではアメリカ人気質をよく学んでいて、と同時にアメリカの産業構造にも熟知していた。
アメリカは日本とは比較にならないほどの工業生産力を持ち、国民も自由を愛し、のびのびと暮らすことをモットーとしていた。
もしこのアメリカと戦うようなことがあっても、日本はまともに戦えるはずもないなと痛感していたようだ。
留学時代から様々な諸外国の文化に接していたが、山本は大の博打好き。
ポーカーなども得意だったと聞いている。
おそらくはワクワクドキドキする感覚が大好きだったのかもしれない。
そして有名なところでは大の甘党だったようだ。
コーヒーなども好きでよく飲んでいたが、ありえないぐらい大量の砂糖を入れて飲んでいたようだ。
映画にもなった有名なことには水まんじゅうに砂糖を大量にかけて食べているシーンがあった。
人となりが垣間見える瞬間。
この山本は軍人の肩書きを持ちつつも、経済的な様々な事柄に精通していた。
計画立案するのにどれだけの装備と準備とお金が必要なのかを常に計算に入れていたのだ。
そして世の中が徐々にアメリカとの戦争に傾いていく中、最後まで戦争すべきではないと訴えていた。
海軍の主要な軍人でありながら彼のスタンスは反戦。
条件をいろいろ考慮してみても、アメリカには勝てないと判断せざるを得なかったのだ。
しかし山本といえども時代の流れには逆らうわけにはいかない。
結局は真珠湾攻撃を計画立案するに至る。
連合艦隊司令長官
帝国海軍の最高司令官に任命されていた立場上、戦争はできませんとは言えない。
真珠湾攻撃を画策し、それを成功させるだけの力量はもちろん彼に備わっていた。
このときの作戦は、航空機による奇襲攻撃。
世の中全体の流れとして戦艦で戦争する時代から航空機で戦う戦法に変化していることを敏感に感じ取っていた山本は、戦闘機を主力とする編成に軍隊を変化させようとしていた。
そのためにパイロットを養成し、また戦闘機も零戦などに代表される名機を準備。
そして満を持して戦闘開始となった。
最近では歴史的な様々な事実が明らかになっているので、真珠湾攻撃は奇襲の形はとっているが、きちんと宣戦布告の通達は終わった後に攻撃している。
ただし、アメリカにも卑怯な思惑があって、宣戦布告の通達を無視して奇襲攻撃をされたと盛んに言いふらした。
山本の目論見としては、真珠湾攻撃の後、直ちに外交的な手段を用いて講和して欲しかったと聞いている 。
しかし、この思惑とは全く裏腹に、戦意を喪失すると思われたアメリカは逆にやる気満々で日本に立ち向かってくることに。
山本自身は真珠湾攻撃の成功は正直、大成功はしているが、その次の準備ができていないが故に、最後まで疑問符の残る戦いだったに違いない。
そして山本の心配は現実のものとなっていく。
真珠湾攻撃の後、いくつか主要な戦いが太平洋で繰り広げられるが、そのほとんどにおいて日本はボロ負けしている。
真珠湾攻撃の後の流れを受けたときに山本はおそらく勝てないと悟っていたに違いない。
本気のアメリカと戦って勝てる国などこの当時だって存在しなかった。
アメリカの思惑も、日本と戦って徹底的に封じ込めるのが狙いだったので、真珠湾攻撃をスケープゴートにして反撃の狼煙を上げた。
覚悟の死
実は真珠湾攻撃の後、間もない時期に日本の暗号文はすべてアメリカに解読されていたようだ。
昭和16年12月の最初の作戦から1年半経った頃、山本は普段から自分自身の手帳に書いてある戦死した部下たちの名前を見ることが多かったと聞いている。
それは部下たちに申し訳ない気持ちと、いずれ自分自身が直接あの世に行って謝罪しなければならないと思っていたのかもしれない。
様々な作戦行動がどうやらアメリカに筒抜けになっていることもうすうすは感づいていた節がある。
危険を承知で南方戦線視察に赴いていたのだ。
一式陸攻でニューギニアからフィリピン方面に向かう途中にアメリカ軍の攻撃を受ける。
このときの空中戦はおよそ4分ほどで終わったと聞いている。
こうなる事はどうも山本はあらかじめ予測できていたようだ。
それでも自分が直接現地に赴いて将兵たちを励ましたいと考えていた。
その志半ばで帰らぬ人となったのだ。
享年59歳。
還暦を前にして戦死している。
軍人としては立派な経歴を持ちながらも、現実主義者で戦わないことをモットーとしていたようだ。
そして戦ったときには命のやりとりがあって当然とも思っていたらしい。
特攻隊の攻撃も山本は黙認していたと聞いている。
戦うときには命がけ、だから戦わないのがよろしい
これが山本のスタンスだったと言える。
このような山本の考えは周りの軍部や政治家にはなかなか受け入れられなかったのだ。
結局は太平洋戦争の大勢の犠牲者の中の1人として書き加えられることに。